[[ルーツ]]>[[北関東・越後戦国大名家]]
*宇都宮家
|100|50|400|c
|宇都宮宗円|1057&br;天喜5|藤原道兼の曾孫。「前九年の役」において安倍貞任・宗任調伏祈祷のため下向して宇都宮座主となる。|
|宇都宮宗綱|-|常陸大掾平棟隆の娘を妻とし、八田朝綱・知家をもうける。八田は常陸八田郷に由来。|
|宇都宮(八田)朝綱|1184&br;元暦元|源頼朝より宇都宮検校職安堵。&br;二荒山神社には、宇都宮検校を筆頭に、一族の東上条・氏家・西方・笠間・西上条・武茂・中里家が神官として仕える。&br;源頼朝による奥州征伐には、紀権守益子正重・波賀次郎大夫高親といった紀清党を郎党として引きつれ参加。|
|~|建久5|『公田百余町歩押領事件』&br;下野国司により押領を訴えられ朝綱は土佐、孫の頼綱は豊後への配流処分となる。赦免後、朝綱は隠居。|
|宇都宮頼綱|1205&br;元久2|『牧の方陰謀事件』&br;北条時政の後妻で、頼綱の義理の母である牧の方が、将軍源実朝を殺害し娘婿の平賀朝雅を将軍職に就けようと画策。北条政子らによって、北条時政・牧の方は伊豆へ追放。平賀朝雅も殺害される。この事件で、下野守護小山朝政に宇都宮頼綱追討令が出されるも、小山朝政が「叔家之好」有りとして拒否。宇都宮頼綱も出家したために謀反加担の嫌疑が解かれる。|
|~|1221&br;承久3|『承久の乱』&br;将軍源実朝亡き後、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に叛旗。執権北条義時が北条泰時・時房を派遣し討伐。上皇らは配流され後堀河天皇が擁立される。この戦いで、子の横田頼業・笠間時朝の武功によって伊予守護職を得る。|
|宇都宮泰綱|1243&br;寛元元|執権北条経時のもとで幕府評定衆となる。|
|宇都宮景綱|1293&br;永仁元|五番引付頭人就任。|
|~|1283&br;弘安6|『宇都宮弘安式条』制定。|
|宇都宮公綱|1333&br;元弘3|北条高時の命により紀清両党を率いて四天王寺で楠木正成と戦う。&br;奈良般若寺布陣の際、後醍醐天皇の綸旨を受け南朝方に転じる。|
|~|1335&br;建武2|新田義貞旗下で足利尊氏と箱根竹ノ下で戦うも敗戦。|
|宇都宮氏綱|1350&br;正平5|『観応の擾乱』&br;足利尊氏・直義兄弟の内乱に際して、氏綱は尊氏方として薩埵山合戦・武蔵野合戦で活躍し、上野・越後守護職を得る。&br;なお、父の公綱と異なり氏綱は当初から北朝方として活躍。|
|~|1362&br;貞治元|初代鎌倉公方足利基氏が宇都宮氏綱の越後守護職を関東管領上杉憲顕に与える。氏綱配下の芳賀高貞・高家は越後国内・武蔵岩殿山・苦林野で上杉軍と激戦するも敗戦。下野に進撃してきた鎌倉公方足利基氏に宇都宮氏綱は降伏。|
|~|1367&br;貞治6|鎌倉公方足利基氏死去とともに、相模守護を解任された河越家率いる平一揆とともに叛旗。しかし、鎌倉公方氏満・上杉朝房軍に攻められ敗北。|
|宇都宮基綱|1380&br;康暦2|小山義政との間で「裳原合戦」を戦い戦死。鎌倉公方足利氏満は村岡に布陣し上杉憲方・朝宗・木戸法季を大将として小山義政を追討。小山義政は自刃、子の若犬丸は祇園城で一時篭城するも会津に逃れ自刃。|
|宇都宮持綱|1416&br;応永23|上杉禅秀の乱にて那須資重らとともに鎌倉公方足利持氏に与す。|
|~|1422&br;応永29|将軍足利義持によって鎌倉公方足利持氏に対抗する京都扶持衆に任ぜられていた宇都宮持綱が「小栗満重の乱」に加担。鎌倉公方足利持氏による追討を受け逐電。甲州で一族の塩谷駿河守に討たれる。|
|宇都宮等綱|1440&br;永享12|『結城合戦』&br;故鎌倉公方足利持氏の遺児を擁する結城氏朝が幕府に叛旗。宇都宮等綱は幕府軍として参加。|
|~|1450&br;宝徳2|山内上杉家宰長尾景仲・扇谷上杉家宰太田資清が鎌倉公方足利成氏急襲を計画。宇都宮等綱は鎌倉公方方として由比ガ浜で合戦。|
|~|1454&br;享徳3|『享徳の乱』&br;鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を西御門で暗殺。足利成氏は鎌倉を離れ古河に移る。&br;宇都宮等綱は一転して幕府追討軍大将今川範忠に従う。その後、一時、古河公方足利成氏に下るが、再び将軍足利義政方に。しかし、古河公方足利成氏に圧迫され陸奥白河の白川直朝のもとに亡命し死去。|
|宇都宮明綱|1454&br;享徳3|『享徳の乱』に際して父・等綱と別行動。紀・清両党を率いて古河公方足利成氏の旗下に。なお、古河公方方には、小山持政・那須資持・佐野盛綱・那須資重(下那須・越後守系・烏山城主)が加わった。|
|宇都宮正綱|1471&br;文明3|将軍足利義政の働きかけによって小山持政とともに幕府方に転向。|
|宇都宮成綱|1512&br;永正9|『宇都宮錯乱』&br;勢力を高めた重臣・芳賀高勝に脅威を感じた宇都宮成綱が高勝を自刃させる。古河公方政氏・高基父子の内紛と絡んで宇都宮家が二分される。1514(永正11)年に宇都宮成綱が芳賀高孝を従え、成綱の弟・興綱を高孝の嗣子とする。|
|宇都宮興綱|1536&br;天文5|芳賀を継いだ興綱は兄・宇都宮成綱から宇都宮家の家督を奪取。しかし、興綱は芳賀高経によって自害に追い込まれる。|
|宇都宮俊綱(尚綱)|1541&br;天文10|芳賀高経によって自害させられた宇都宮興綱の子・宇都宮俊綱が芳賀高経を自害させる。|
|~|1549&br;天文18|宇都宮・佐竹連合が北条方小山・結城連合と争う「喜連川早五月女坂合戦」にて宇都宮尚綱戦死。宇都宮城は壬生綱房・周長兄弟によって占拠。佐竹義昭の助力により嗣子伊勢寿丸(広綱)は芳賀高定とともに宇都宮城を奪取。|
|宇都宮国綱|1583&br;天正12|『沼尻合戦』にて後北条家と佐竹家陣営が激突するも勢力均衡して勝敗つかず。|
|~|1590&br;天正18|豊臣秀吉による小田原征伐に参陣。|
|~|1597&br;慶長2|石高隠匿を浅野長政に咎められ、豊臣秀吉によって所領没収、宇喜多秀家預かりとなる。|



トップ   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS