藤原木工助助憲 | - | 藤原南家の末裔・常陸介維幾の子。工藤を称する。 |
工藤伊東維織 | - | 藤原木工助助憲の末。伊豆押領使として伊東庄に住し伊東を称する。 |
工藤裕経 | 1185 文治元 | 源 頼朝の御家人の一人として、三河守源 範頼、天野内藤遠景とともに西上。豊後に渡る。 |
1190 建久元 | 源 頼朝より日向国地頭職を賜る。 | |
1193 建久4 | 【曾我の仇討】かつて、工藤裕経は所領争いから従兄弟の裕親の子裕通を討った。その裕通の遺児・十郎裕成、五郎時致によって富士の裾野の狩場にて討ち取られる。 | |
伊東(工藤)裕経 工藤裕経の子 | 1198 建久9 | 日向国地頭職を賜る。 諸県庄450町、田嶋庄95町、富田庄80町、県庄120町、児湯郡240町を宛がわれ、一族庶子を代官として派遣。 初めて伊東を称する。 四男七郎左衛門尉裕明:田嶋庄に下向し田嶋殿と呼ばれる。 七男九郎裕景:富田庄、県庄を領し門川殿と呼ばれる。 八男余一裕頼:諸県庄のうち木脇を領し木脇殿と呼ばれる。 |
伊東裕持 | 1335 建武2 | 北条時行に与し足利尊氏に敗れる。以降、足利尊氏に属す。 |
日向国にて肝付兼重、木脇の伊東裕広、肥後国の菊池武敏が南朝方として挙兵。鎮圧のために日向に下向。 同時期に下向した畠山直顕と土持家とともに南朝の宮崎池内城、高浮田城、猪野見城を攻略。 【宮方】伊東裕広、同弥七裕貞、同弥八裕勝、益戸孫四郎行政、同四郎兵衛尉秀名、穂北郡司平島三郎、肝付八郎兼重、同金童丸、萩原太郎兵衛尉義政、図師随円、一坪六郎入道慈円 【武家方】土持左衛門太郎親綱、同次郎重綱、同惟信、同宣栄、同八郎時栄、大田八郎入道助頼、同右衛門次郎資家、矢野小三郎義基 | ||
伊東裕重 | 1348 貞和4 | 伊東裕持が京都にて死去。父に代わって、日向国に下向。 一族長倉、稲津、落合の他、湯地、河崎、井尻、井戸河、布施、関谷、山田、宮田、垂水、福永ら25家が従う。日向国では都於郡の山田、荒武、津留、大脇の四天衆が迎える。 |
1349 貞和5 | 伊豆国伊東庄が裕藤に押領され、石堂家の知行地となる。ここに、伊東家は本貫地を失った。 |