[[葛西橋からの旅]]
*関東史
||757-|武蔵国分寺(現東京都国分寺市)が建立される。|
|宝亀2年|771|武蔵国が東山道から東海道に。|
|貞観3年|861|各郡に検非違使が置かれる。|
|延喜9年|909|立野牧が勅使牧になる。立野牧は現在の東京都東大和市立野近辺とされる。|
|天慶2年|939|平 将門、叛乱す。|
|天永4年|1113|武蔵七党の横山党が内記太郎殺害容疑で追捕される。|
|治承4年|1180|源 頼朝、江戸重長に武蔵国諸雑事を命じる。|
|元久2年|1205|坂東平氏秩父氏惣領 畠山重忠が北条時政により誅殺される。後、畠山家は足利流となる。|
|嘉禄2年|1226|河越重員が武蔵国留守所総検校職に任命される。|
|寛喜3年|123||検校職に関する職権4ヵ条に関する明法勘状が日奉(ひまつり)実直によって提出される。|
|正和2年|1313|江戸重通vs江戸政重訴訟で重通が家督を勝ち取る。|
|正慶2年|1333|新田義貞軍、鎌倉幕府軍と「久米川の戦い」(現八国山将軍塚)、「分倍河原の戦い」を戦う。|
|建武2年|1335|足利直義軍、北条時行率いる北条軍と府中で戦う[中先代の乱]。|
|文和元年|1352|新田義興軍、武蔵野合戦[人見ヵ原の戦い]で足利尊氏軍を破る。|
|延文3年|1358|新田義興、多摩川の矢口の渡しで江戸遠江守に謀殺される。|
|応安元年|1368|平一揆。坂東平氏、武蔵七党の多くが参加。これにより武蔵武士の名門の多くが没落する。この頃以降、大石氏が守護代として勢力拡大。|
|応永23年|1416|「上杉禅秀の乱」に武蔵国が揺れる。豊島氏および南一揆は鎌倉府の足利持氏軍に加勢。南一揆は多摩の中小武士団の連合軍で、その中には武蔵七党の流れを汲む立河雅楽助(多西郡土淵郷[現日野市])の名が見える。|
|永享10年|1438|鎌倉公方足利持氏が関東管領山内上杉憲実に敗れる(「永享の乱」)。|
|享徳3年|1454|鎌倉公方足利成氏(持氏四男)が山内上杉憲忠を謀殺。「享徳の乱」が勃発する。|
|康正元年|1455|太田資長、江戸城築城開始。元江戸城が現在の千代田城の中。|
|文明8年|1476|長尾景春、上杉家に叛乱(「長尾景春の乱」)。翌年、景春党、豊島泰経と太田資長(後の道灌)が沼袋原で戦う。豊島氏は石神井城より出陣、太田氏は沼袋城に布陣(現沼袋氷川神社)。豊島氏は大敗を喫し多数の戦死者を残し平塚城に撤退。平塚城落城とともに小机城に篭城するも、要害小机城も太田氏により落城。これによって豊島宗本家は滅亡する。|
|長享元年|1487|山内上杉家と扇谷上杉家が覇権を競い戦う[長享の乱]。関東とりわけ武蔵国は、「禅秀の乱」、「永享の乱」、「享徳の乱」、「長尾景春の乱」によって動揺し、さらにこの「長享の乱」によって荒廃を極めた。|
|永正元年|1504|「立河原の戦い」で扇谷上杉朝良軍、今川氏親・伊勢宗瑞軍が山内上杉顕定軍を破る。伊勢宗瑞は、後の後北条早雲。|
|大永4年|1524|北条氏綱が「高輪原の戦い」で、扇谷方の江戸太田資高と呼応し、扇谷上杉朝興を下し江戸城入城。扇谷上杉朝興は河越城へ敗走。江戸城には遠山直景、富永弥四郎を据える。|
|永禄4年|1561|北条氏康が上杉謙信方の三田綱秀(現東京都国立市保谷三田館)を討つ。|
|天正11年|1583|北条氏照が品川住民に対して「人返し令」発布。|
|天正18年|1590|北条軍の八王子城が豊臣軍の前田利長らにより落城。この年、三河の徳川家康が江戸に移封される。家康は樽屋藤左衛門と奈良屋市右衛門を町年寄に任命、江戸の都市開発が開始される。|
|慶長8年|1603|江戸開府。|

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