ルーツ奥州戦国大名家

波木井(南部)家

事蹟

波木井(南部)実長-父・南部光行から波木井三郷を譲られ、波木井円実寺背後に波木井城を築城。
1274
文永11
鎌倉を追われた日蓮を波木井に迎える。以降、身延山が日蓮宗の本山となる。
波木井(南部)長継1320
元応2
『津軽大乱』勃発。
十三湊・福島城の安東季長と藤崎城の安東宗季が蝦夷管領職を巡って武力対立。得宗内管領長崎高資は双方から賄賂を得るも、裁定を後醍醐天皇による謀反「正中の変」後の1325(正中2)年まで引き延ばす。正中の変終息後、鎌倉幕府は蝦夷管領職を庶流の安東宗季に与える。
1327
嘉暦2
『安藤の乱』
蝦夷管領職を奪われた安東季長が藤崎城の宗季を襲撃(1326)。鎌倉幕府は得宗領・田舎郡政所工藤祐貞のもとに、宇都宮高貞、小田尾張権守高知を蝦夷追討使として派遣。この追討軍の一員として、波木井(南部)長継も糠部に出陣。
波木井(南部)長継は畑六郎右衛門時能とともに安東軍と戦う。蝦夷追討使軍は安東季長の首を取ったものの、安東季兼の激しい抵抗に遭い和睦。
-1330
延慶3
波木井(南部)実長の兄・実光の孫の次郎政行と孫三郎宗実との間で、『霜月騒動(1285[弘安8])』で誅殺された長兄・孫次郎政光の遺領・南部郷内田八町二反を巡る争いの判決が出る。同領は政行・時長父子と宗実・武行父子の交互知行となる。
しかし、政行の後妻尼了心と子・資行が政行死後に同領を遺贈されたと武行に助願。鎌倉幕府有力者である長崎思元の婿となっていた武行が長崎家の支援のもと擁護。
波木井(南部)4代長継は時長の弟であり、この所領を巡る争いが波木井(南部)を後醍醐天皇の統幕に加担させることとなる。
波木井(南部)実継1331
元弘元
後醍醐天皇の倒幕計画が大納言吉田定房によって鎌倉幕府の知るところとなり、楠木正成・護良親王・尊良親王が河内赤坂城に篭城(『元弘の変』)。波木井(南部)長継の父で波木井2代の実継も篭城するが落城し六条河原で斬首される。
波木井(南部)師行1333
元弘3
後醍醐天皇の綸旨を受け取った南部時長・師行・政長3兄弟が新田義貞の軍勢に加わり鎌倉を攻略。
長継の甥であるが養子となり家督承継。鎮守府将軍北畠顕家に従って、奥州に下向し糠部を本拠地に南朝方として活躍。北畠顕家から糠部郡国代に任ぜられる。
北条一門名越時如と秋田城介安達高景が御内人で大光寺城主曽我道性のもとに落ち延び北条家再興の叛旗を翻す。ここに、安東師季も参加。鎮守府将軍北畠顕家は岩楯城主曽我光高(曽我庶流)に討伐を命じ、波木井(南部)師行・多田貞綱も参陣。大光寺城は落城するも北条残党は持寄城に篭城。波木井(南部)師行と黒石奉行工藤貞行は安東一族を説諭し外ヶ浜明師・安東祐季を引き入れ持寄城を攻めたため、名越時如と秋田城介安達高景も降伏。
1338
延元3/暦応元
鎮守府将軍北畠顕家とともに足利方の高師直軍と河内石津で戦い討死。
波木井(南部)政長1339
延元4
前年の波木井(南部)師行の死後、糠部根城を弟・政長が承継。その年、足利尊氏が征夷大将軍となり、奥州多賀国府に石塔義房を奥州総大将として派遣。北畠顕家の弟・顕信も陸奥介鎮守府将軍として父・親房とともに義良親王を奉じて海路奥州を目指すも難破。結果として、奥州諸家は石塔義房に馳せ参じ京都に続いて奥州も足利色に染まる。
その中、1339年に政長は鹿角の成田頼時、津軽の工藤貞行とともに宿敵の大光寺城主・曽我貞光を襲う。
1346
正平元
畠山国氏・吉良貞家両奥州管領が波木井(南部)政長に降伏勧告。
1347
正平2
畠山国氏・吉良貞家両奥州管領が霊山、田村・宇津峯城を攻め北畠顕信を出羽に敗走させる。


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Last-modified: 2008-11-08 (土) 18:09:39 (5640d)