足利家氏 | 1245 寛元3 | 足利泰氏と名越朝時の娘の子。将軍近侍。 |
1253 建長5 | 中務大輔に任ぜられる。 鎌倉幕府第5代執権北条時頼の姪を正室としていたため北条家に重用。但し、家督は弟の足利頼氏が継いだ。 陸奥国斯波郡を領した。 |
斯波高経 (1305-1367) | 1333 元弘3 | 後醍醐天皇の綸旨に応じた足利尊氏に従って鎌倉攻略軍に参加。 |
1336 建武3 | 湊川の戦いで新田義貞、楠木正成と戦う。 |
1337 建武4 | 越前藤島で高師泰と金ケ崎城を攻め新田義貞を下す。 |
1350-52 観応年間 | 足利直義派と高師直派が争った観応の擾乱では、足利直義方、後に足利尊氏方につき、さらに足利直冬に通じる。 |
1351 観応2 | 【岩切城の合戦】吉良、畠山の両奥州探題が干戈を交える。岩切城の畠山家が敗れる。南朝北畠顕信が間隙を突いて多賀国府を攻撃するも吉良家によって撃退される。 |
1353 文和2 | 奥州管領吉良貞家の死後、斯波高経の弟の斯波家兼が新奥州管領として派遣される。 しかし、畠山氏の遺児国詮、吉良貞家の子の吉良満家が奥州管領を主張した他、奥州総大将石塔義房の子・義憲も鎌倉から奥州入りして奥州管領を名乗った。これによって、奥州で4管領家が覇を競うこととなる。 |
1362 康安2 | 足利家執事細川清氏が佐々木道誉によって失脚すると、子の斯波義将を執事に推し、婿である佐々木(六角)氏頼を推薦していた佐々木道誉と衝突。 |
1366 貞治5 | 【貞治の変】室町幕府将軍足利義詮が斯波高経に謀反ありとして三条坊門幕府に軍勢を集結。斯波高経は義将ら一族を引き連れて将軍の下知に従い自邸を焼き払って守護国である越前に下向。 事変の背後には京極(佐々木)家および赤松家の動きあり。 |
1367 貞治6 | 越前杣山城にて死去。 |
大崎直持 (1327-1383) | - | 奥州管領斯波家兼の嫡子。奥州管領職を相続。大崎氏の祖となる。 師山城を居城とし、渋谷・大掾・泉田・四方田ら鎌倉以来の河内四頭を旗下とする。 |
斯波兼頼 | - | 奥州管領斯波家兼の次男。羽州探題となり最上氏の祖となる。 |
大崎詮持 大崎直持の子 | 1392 明徳3 | 関東公方足利満兼が奥羽を支配下に置く。 |
1399 応永6 | 関東公方足利満兼が満兼は弟の満貞と満直を奥州の稲村、篠川に派遣。大崎詮持の奥州管領職の実権が侵食される。 |
1399 応永6 | 【伊達政宗の乱】鎌倉府による奥州支配に対して、伊達政宗が奥州管領大崎詮持や蘆名満盛とともに叛旗。鎌倉府から派遣された結城満朝(白河満朝)や上杉氏憲と干戈を交える。 鎌倉から馳せ参じた大崎詮持は鎌倉軍の追撃を受けて仙道大越にて自害。 |
大崎満持 | 1400 応永7 | 大崎詮持の孫の満持が奥州探題に任命。探題府は名生城に置かれたと思われる。 |
大崎持詮 | 1432 永享4 | 南部家と下国安東家との争いに室町幕府を代表して調停。 |
大崎教兼 | 1457 康生3 | 【蠣崎蔵人の乱】蠣崎氏を討った八戸南部家に対して官途推挙状を発行。 |
1465 寛正6 | 【享徳の乱】奥州諸家に室町将軍の命令を通達。 |
1468 応仁2 | 【氏家の反乱】重臣の叛乱によって大崎教兼は居城を追われ、江刺・薄衣家を頼る。この争いは、葛西、柏山、大原、本吉、寺崎らの諸家の介入によって大乱となる。江刺、糠部、斯波、稗貫、遠野、和賀の諸家も出兵。 |
大崎義兼 (-1529) | 1488 長享2 | 【家中大乱】伊達成宗による援助によって鎮圧。 |
1525 大永5 | 伊達成宗が陸奥国守護職に任命され左京大夫に任官。左京大夫は大崎家の家職。更に、奥州には鎌倉時代から守護職は設置されていなかった。伊達成宗が守護職に任ぜられたことで大崎家の探題職は有名無実と化す。 |
大崎義直 (1514-1577) | 1534 天文3 | 【大崎氏天文の内訌】志田郡泉沢領主新田安芸頼遠が中新田・高木・黒沢らと叛旗。将軍足利義晴の口ぞえ無しには家督相続を成しえない義直の足元を見ての挙兵。伊達稙宗の援助によって鎮圧。 乱の後、伊達稙宗は次男義宣を義直の養子として送り込む。 |
1541 天文11 | 【伊達氏天文の大乱】大崎家中にて親伊達派氏家家と反伊達派笠原党が対立。ここに、伊達稙宗の嫡子・晴宗が稙宗を桑折西山城に幽閉し、伊達家を二分する大乱が勃発。伊達家中は稙宗が晴宗に家督を譲ることで決着するが、稙宗派であった大崎義宣は義父義直に追われ葛西家を頼る途上桃生郡二俣にて戦死。 大崎家の家督は義直の子義隆が相続。大崎家は反伊達派で固まる。 |
大崎義隆 (1548-1603) | 1586 天正14 | 【大崎合戦/伊達政宗の介入】新井田刑部が大崎家執事の氏家弾正、伊庭野惣八郎らを追放し、主君大崎義隆に代えて伊達政宗に忠誠を誓う。 これに応えて、伊達政宗は進軍。しかし、伊達政宗の到着を待たずして氏家弾正を攻撃。伊達政宗への忠誠も反故とし大崎義隆を再び擁立。これに対して、氏家弾正が伊達政宗の家臣・片倉景綱に援助を要請。伊達政宗は泉田安芸と留守政景を将として、刈田・柴田・名取・宮城の諸勢を率いて、敵主城中新田城、桑折城、師山城、下新田城を攻撃させた。 この戦いは大雪などによって伊達軍の敗戦となり、伊達家が増派援軍を送り込もうとした矢先、大崎・黒川・最上三家からの呼びかけで和議が結ばれる。 |
1589 天正17 | 伊達政宗が葦名家を滅ぼす。これによって、大崎家は事実上、伊達家の支配下に置かれた。戦場で勝って戦略で負けたのだとも言える。 |
1590 天正18 | 豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったために所領没収。上杉家に預けられる。 |