藤原常陸介惟幾 | 940 天慶3 | 【平将門の乱】藤原貞盛を平将門追討使に任命し、その叔父藤原惟幾を常陸介に任じて東下し、平 将門を追討。 平 将門は、前年、陸奥国府の藤原惟幾を襲撃し印鎰を奪っている。 |
工藤為憲 | - | 平 将門の叔父で坂東八平氏の祖・平 良文(村岡五郎)の娘が藤原惟幾に嫁ぎ、工藤為憲が生まれる。 |
工藤伊東維織 | - | 藤原木工助助憲の末。伊豆押領使として伊東庄に住し伊東を称する。 |
工藤裕経 | 1185 文治元 | 源 頼朝の御家人の一人として、三河守源 範頼、天野内藤遠景とともに西上。豊後に渡る。 |
工藤行光 | 1189 文治5 | 工藤維職の弟・景任の後裔工藤庄司景光の子小次郎雪行光は、源 頼朝の奥州征伐に従軍。岩手郡厨川に所領を与えら定住する。 |
1190 建久元 | 源 頼朝より日向国地頭職、陸奥国鞭指庄を賜る。 |
1193 建久4 | 【曾我の仇討】かつて、工藤裕経は所領争いから従兄弟の裕親の子裕通を討った。その裕通の遺児・十郎裕成、五郎時致によって富士の裾野の狩場にて討ち取られる。 |
工藤裕時 工藤裕経の子 | 1198 建久9 | 日向国地頭職を賜る。 諸県庄450町、田嶋庄95町、富田庄80町、県庄120町、児湯郡240町を宛がわれ、一族庶子を代官として派遣。 初めて伊東を称する。 四男七郎左衛門尉裕明:田嶋庄に下向し田嶋殿と呼ばれる。 七男九郎裕景:富田庄、県庄を領し門川殿と呼ばれる。 八男余一裕頼:諸県庄のうち木脇を領し木脇殿と呼ばれる。 |
工藤祐朝 | - | 工藤祐時の子。工藤左衛門次郎と称して津軽に定住。弟の弟祐光は三戸名久井として糠部郡に勢力を張った。 |
- | 1331 元弘元 | 【元弘の乱】後醍醐天皇の倒幕計画が失敗し、天皇は隠岐に流される。 この頃、工藤家は南部家に従って三戸郡坂牛村に住み坂牛を称した。 |
- | 1467 応仁元 | 【応仁の乱】勃発。 この頃、工藤家は南部家に仕える。また、九戸郡葛巻村に移り、葛巻・田頭・穴沢・杉沢の各家に分かれる。惣領家は厨川を称する。 |
- | 1471 文明3 | 室町幕府が伊達成宗らに古河公方足利成氏の討伐を命じる。 |
- | 1473 文明5 | 室町幕府が石川家に伊達成宗の討伐を命じる。 |
- | 1474 文明6 | 岩城親隆、岩城政朝が一揆を誓約。 |
- | 1482 文明14 | 葦名盛高が猪苗代城に入城。 |
- | 1483 文明15 | 伊達成宗が上洛し、室町幕府将軍足利義尚、義政に謁見。 |
- | 1484 文明16 | 葦名盛高が二階堂盛義を磐瀬城に攻める。 |
- | 1488 長享2 | 大崎義兼が家中騒動により伊達尚宗を頼る。 |
- | 1489 延徳元 | 伊達尚宗、葦名盛高、岩城重隆、結城政朝らが常陸国に侵攻し佐竹義治と干戈を交える。 |
- | 1491 延徳3 | 南部光信が津軽支配のために種里城に入城。 |
- | 1494 明応3 | 伊達尚宗が家中騒動により追放され葦名盛高のもとへ落ち延びる。 |
- | 1503 文亀3 | 葦名盛高、伊達尚宗が二本松の支配権を廻り猪苗代で対峙。伊達尚宗は越後上杉家に援軍を請う。 |
- | 1505 永正2 | 葦名盛高が子の葦名盛滋と干戈を交え、長井に落ち延びる。 |
- | 1506 永正3 | 葦名盛滋が会津黒川城に葦名盛高を襲撃。 |
- | 1523 永正10 | 砂越氏雄が武藤澄氏と田方郡で干戈を交え敗れる。 |
- | 1524 永正11 | 最上義定と伊達稙宗(将軍足利義稙から偏諱を受けていた)と長谷堂で干戈を交える。 |
- | 1523 大永3 | 伊達稙宗が陸奥国守護職に任ぜられる。 |
- | 1528 享禄元 | 葛西晴重の死後、伊達稙宗、葦名盛舜が葛西家の石巻城を攻略。以後、伊達稙宗の子・晴胤が葛西家の家督を相続。 |
- | 1533 天文2 | 伊達稙宗が土倉の規定を制定。 |
- | 1536 天文5 | 伊達稙宗が分国法「塵介集」を制定。 |
伊達稙宗が大崎義直を支援し古川城を攻める。 |
葦名盛氏と田村隆顕が同盟を結ぶ。 |
- | 1538 天文7 | 大崎義直が室町幕府将軍足利義晴に進物を献上。 |
- | 1539 天文8 | 南部安政が室町幕府将軍足利義晴から偏諱を受け晴政を名乗る。 |
- | 伊達稙宗が越後村上城主・本庄房長を攻める。 |
- | 1540 天文9 | 伊達晴宗が父・伊達稙宗を陸奥西山城に幽閉。 |
- | 最上義守が置賜郡に侵攻し伊達晴宗と干戈を交える。 |
- | 1541 天文10 | 【天文の乱】伊達晴宗とが父・伊達稙宗が干戈を交える。 |
伊達稙宗に呼応し、大崎義宣、葛西晴胤が伊達晴宗と干戈を交える。 |
佐竹義篤が伊達晴宗に与力し相馬顕胤と久保田で干戈を交える。 |
伊達稙宗が刈田、柴田郡に侵攻。 |
- | 1551 天文20 | 葦名盛氏・畠山尚国が結城晴綱の仲介によって田村隆顕と和睦。 |
- | 1555 弘治元 | 伊達晴宗が陸奥探題に補任される。 |
- | 1560 永禄3 | 最上義守が寒河江城主・大江兼広と干戈を交える。 |
- | 1562 永禄5 | 秋田愛季が扇田長岡城を攻め浅利則裕を討死させる。 |
- | 1566 永禄9 | 伊達輝宗と葦名盛氏が和睦。 |
- | 秋田愛季が南部晴政から鹿角郡を奪い手中に収める。 |
- | 1569 永禄12 | 南部晴政が秋田愛季から鹿角郡を奪い返す。 |
- | 1571 元亀2 | 大浦為信が石川城主・南部高信、和徳城主・小山内讃岐を攻める。 |
- | 1573 天正元 | 【室町幕府滅亡】 |
- | 1574 天正2 | 伊達輝宗と最上義光が村山郡千石で干戈を交える。 |
- | 1578 天正6 | 最上義光が上山満兼を討つ。 |
- | 1582 天正10 | 庄内尾浦城主・大宝寺義氏が秋田愛季と干戈を交える。 |
庄内尾浦城主・大宝寺義氏が最上郡の清水義氏を攻める。 |
【本能寺の変】 |
- | 由利衆が小野寺家を大沢に攻める。 |
- | 1583 天正11 | 秋田愛季が庄内地方に侵攻し大宝寺義氏と干戈を交える。 |
- | 秋田愛季が比内城主・浅利義正を檜山城に招いて謀殺する。 |
- | 1584 天正12 | 浅利頼平と大浦為信が比内地方に侵攻。 |
- | 1585 天正13 | 【高田原の変】伊達政宗との和睦会議の席上、畠山(二本松)義継が伊達輝宗を拉致。伊達政宗の追撃により、畠山(二本松)義継、伊達輝宗ともに討死。 |
- | 【仙道人取橋の戦い】伊達政宗が畠山家を支援する佐竹、葦名、岩城家と干戈を交える。 |
- | 1586 天正14 | 【有屋峠の戦い】小野寺義道が最上義光と干戈を交える。 |
- | 大浦為信が比内侵攻のために碇ヶ関道を開く。 |
- | 1587 天正15 | 【唐松野の戦い】秋田愛季と戸沢盛安が干戈を交える。 |
- | 1588 天正16 | 秋田実季が大浦為信の領内通行を拒否。 |
- | 佐竹義重が伊達政宗の郡山包囲を妨害。 |
- | 伊達政宗と最上義光が和睦する。 |
- | 本庄繁長が最上義光を破る。 |
- | 伊達、最上、佐竹家等が豊臣秀吉と徳川家康の仲介によって和睦する。 |
- | 1589 天正17 | 豊島道季が湊城で蜂起する。 |
- | 秋田実季と大浦為信が浅利与一を討伐。 |
- | 【摺上ヶ原の戦い】伊達政宗が葦名義広を破る。 |
- | 伊達政宗が会津黒川城に入城。 |
- | 豊臣秀吉が伊達政宗の葦名攻めに対して、上杉、佐竹家に伊達政宗討伐を命じる。 |
- | 伊達政宗が須賀川城を落城させる。 |
- | 豊臣秀吉が関東の雄・北条家の討伐を布告する。 |
- | 1590 天正18 | 秋田実季が南部信直から比内地方を奪還する。 |
- | 角館城主・戸沢盛安、津軽為信、伊達政宗、最上義光が小田原に参陣。 |
- | 豊臣秀吉が伊達政宗が攻め取った会津黒川城を没収。 |
- | 南部信直が小田原に参陣し津軽を安堵される。 |
- | 豊臣秀吉が上杉景勝、大谷義継に大宝寺領庄内三郡の検地を実施させる。 |
- | 【奥州仕置】豊臣秀吉が会津黒川城に入城。小田原に参陣しなかった 大崎義隆、葛西晴信、和賀忠親、田村宗顕、石川昭光,白河義親の所領を没収。最上義光、相馬義胤、秋田実季、津軽為信、南部信直、戸沢盛安の所領を安堵。伊達政宗は減封とした。 葛西・大崎領は木村吉清・清久に、会津は蒲生氏郷に与える。 |
- | 【葛西・大崎一揆】木村清久が名生城、木村吉清が寺池城に入るやいなや葛西氏・大崎氏らの旧臣が蜂起。木村親子はわずかな手勢とともに佐沼城に篭城。白河に滞陣していた浅野長政は、急遽、蒲生氏郷と伊達政宗に木村親子の救出を命じる。 名生城に入った蒲生氏郷は伊達政宗の家臣・須田伯耆より伊達政宗が一揆の背後にあるとの情報を得て、名生城篭城を決定。結局、伊達政宗が木村親子を救出。 豊臣秀吉は伊達政宗を疑うが無罪とする。しかし、伊達政宗の所領替えを実施。 |
- | 1591 天正19 | 【九戸の乱】九戸政実が宗家に当たる南部信直の諸城を攻める。 南部信直は豊臣秀吉に支援を依頼。豊臣秀吉は豊臣秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を派遣。小野寺義道・戸沢政盛・秋田実季、大浦為信らも加わって乱を鎮圧。 |
- | 伊達政宗が岩出山城に移る。 |
工藤豊前 | | 厨川城主として南部信直に仕える。 |