奥州戦国大名家

浄法寺家

事蹟

畠山重忠1180
治承4
【衣笠城合戦】河越重頼、江戸重長とともに源 頼朝に合流出来なかった三浦家を本拠の衣笠城に攻め、母方の祖父である三浦義明を討ち取る。
長井渡しにて河越重頼、江戸重長とともに、千葉常胤、上総広常を従える源 頼朝に帰服。
1187
文治3
伊勢国沼田御厨での郎党の狼藉により千葉胤正に預けられる。赦免の後、武蔵国菅谷館に戻るが、侍所所司の梶原景時により謀反の嫌疑をかけられる。下河辺行平の取り成しにより嫌疑は晴れる。
1189
文治5
奥州合戦の功により陸奥国葛岡郡地頭職を賜る。
1205
元久2
【畠山重忠の乱】新羅三郎義光の孫であり、鎌倉幕府執権・北条時政の後妻・牧の方の娘婿でもある平賀朝賀から謀反の嫌疑をかけられ、鎌倉への途上、二俣川にて稲毛重成の軍勢によって討たれる。
この時、重忠の弟長野重清は信濃国、六郎重宗は奥州へ下向。また、嫡子の重保は鎌倉にて三浦義村に討たれていた。
武蔵国慈院にあった三男の畠山小次郎重慶は変事を知り、陸奥浄法寺に落ち延び還俗。これが浄法寺家の始まりという。
北条義時・政子は畠山重忠に謀反の意図なしとして、討伐軍の稲毛重成、榛谷重朝を三浦義村に命じて殺害。父・時政を伊豆に追放。
浄法寺重基-浄法寺重慶の子。西部田山地方、安比川の流域に勢力を拡大。
後に、源実朝が長沼宗政を派遣し討伐。
但し、浄法寺家は鎌倉浄法寺にあった畠山重忠の五男が奥州松岡に逃れ南部家の被官となったのを始まりとする説もあり。
-1467
応仁元
【応仁の乱】勃発。
-1471
文明3
室町幕府が伊達成宗らに古河公方足利成氏の討伐を命じる。
-1473
文明5
室町幕府が石川家に伊達成宗の討伐を命じる。
-1474
文明6
岩城親隆、岩城政朝が一揆を誓約。
-1482
文明14
葦名盛高が猪苗代城に入城。
-1483
文明15
伊達成宗が上洛し、室町幕府将軍足利義尚、義政に謁見。
-1484
文明16
葦名盛高が二階堂盛義を磐瀬城に攻める。
-1488
長享2
大崎義兼が家中騒動により伊達尚宗を頼る。
-1489
延徳元
伊達尚宗、葦名盛高、岩城重隆、結城政朝らが常陸国に侵攻し佐竹義治と干戈を交える。
-1491
延徳3
南部光信が津軽支配のために種里城に入城。
-1494
明応3
伊達尚宗が家中騒動により追放され葦名盛高のもとへ落ち延びる。
-1503
文亀3
葦名盛高、伊達尚宗が二本松の支配権を廻り猪苗代で対峙。伊達尚宗は越後上杉家に援軍を請う。
-1505
永正2
葦名盛高が子の葦名盛滋と干戈を交え、長井に落ち延びる。
-1506
永正3
葦名盛滋が会津黒川城に葦名盛高を襲撃。
-1523
永正10
砂越氏雄が武藤澄氏と田方郡で干戈を交え敗れる。
-1524
永正11
最上義定と伊達稙宗(将軍足利義稙から偏諱を受けていた)と長谷堂で干戈を交える。
-1523
大永3
伊達稙宗が陸奥国守護職に任ぜられる。
-1528
享禄元
葛西晴重の死後、伊達稙宗、葦名盛舜が葛西家の石巻城を攻略。以後、伊達稙宗の子・晴胤が葛西家の家督を相続。
-1533
天文2
伊達稙宗が土倉の規定を制定。
-1536
天文5
伊達稙宗が分国法「塵介集」を制定。
伊達稙宗が大崎義直を支援し古川城を攻める。
葦名盛氏と田村隆顕が同盟を結ぶ。
-1538
天文7
大崎義直が室町幕府将軍足利義晴に進物を献上。
-1539
天文8
南部安政が室町幕府将軍足利義晴から偏諱を受け晴政を名乗る。
-伊達稙宗が越後村上城主・本庄房長を攻める。
-1540
天文9
伊達晴宗が父・伊達稙宗を陸奥西山城に幽閉。
-最上義守が置賜郡に侵攻し伊達晴宗と干戈を交える。
-1541
天文10
【天文の乱】伊達晴宗とが父・伊達稙宗が干戈を交える。
伊達稙宗に呼応し、大崎義宣、葛西晴胤が伊達晴宗と干戈を交える。
佐竹義篤が伊達晴宗に与力し相馬顕胤と久保田で干戈を交える。
伊達稙宗が刈田、柴田郡に侵攻。
-1551
天文20
葦名盛氏・畠山尚国が結城晴綱の仲介によって田村隆顕と和睦。
-1555
弘治元
伊達晴宗が陸奥探題に補任される。
-1560
永禄3
最上義守が寒河江城主・大江兼広と干戈を交える。
-1562
永禄5
秋田愛季が扇田長岡城を攻め浅利則裕を討死させる。
-1566
永禄9
伊達輝宗と葦名盛氏が和睦。
-秋田愛季が南部晴政から鹿角郡を奪い手中に収める。
-1569
永禄12
南部晴政が秋田愛季から鹿角郡を奪い返す。
-1571
元亀2
大浦為信が石川城主・南部高信、和徳城主・小山内讃岐を攻める。
-1573
天正元
【室町幕府滅亡】
-1574
天正2
伊達輝宗と最上義光が村山郡千石で干戈を交える。
-1578
天正6
最上義光が上山満兼を討つ。
-1582
天正10
庄内尾浦城主・大宝寺義氏が秋田愛季と干戈を交える。
庄内尾浦城主・大宝寺義氏が最上郡の清水義氏を攻める。
【本能寺の変】
-由利衆が小野寺家を大沢に攻める。
-1583
天正11
秋田愛季が庄内地方に侵攻し大宝寺義氏と干戈を交える。
-秋田愛季が比内城主・浅利義正を檜山城に招いて謀殺する。
-1584
天正12
浅利頼平と大浦為信が比内地方に侵攻。
-1585
天正13
【高田原の変】伊達政宗との和睦会議の席上、畠山(二本松)義継が伊達輝宗を拉致。伊達政宗の追撃により、畠山(二本松)義継、伊達輝宗ともに討死。
-【仙道人取橋の戦い】伊達政宗が畠山家を支援する佐竹、葦名、岩城家と干戈を交える。
-1586
天正14
【有屋峠の戦い】小野寺義道が最上義光と干戈を交える。
-大浦為信が比内侵攻のために碇ヶ関道を開く。
-1587
天正15
【唐松野の戦い】秋田愛季と戸沢盛安が干戈を交える。
-1588
天正16
秋田実季が大浦為信の領内通行を拒否。
-佐竹義重が伊達政宗の郡山包囲を妨害。
-伊達政宗と最上義光が和睦する。
-本庄繁長が最上義光を破る。
-伊達、最上、佐竹家等が豊臣秀吉と徳川家康の仲介によって和睦する。
-1589
天正17
豊島道季が湊城で蜂起する。
-秋田実季と大浦為信が浅利与一を討伐。
-【摺上ヶ原の戦い】伊達政宗が葦名義広を破る。
-伊達政宗が会津黒川城に入城。
-豊臣秀吉が伊達政宗の葦名攻めに対して、上杉、佐竹家に伊達政宗討伐を命じる。
-伊達政宗が須賀川城を落城させる。
-豊臣秀吉が関東の雄・北条家の討伐を布告する。
-1590
天正18
秋田実季が南部信直から比内地方を奪還する。
-角館城主・戸沢盛安、津軽為信、伊達政宗、最上義光が小田原に参陣。
-豊臣秀吉が伊達政宗が攻め取った会津黒川城を没収。
-南部信直が小田原に参陣し津軽を安堵される。
-豊臣秀吉が上杉景勝、大谷義継に大宝寺領庄内三郡の検地を実施させる。
-【奥州仕置】豊臣秀吉が会津黒川城に入城。小田原に参陣しなかった 大崎義隆、葛西晴信、和賀忠親、田村宗顕、石川昭光,白河義親の所領を没収。最上義光、相馬義胤、秋田実季、津軽為信、南部信直、戸沢盛安の所領を安堵。伊達政宗は減封とした。
葛西・大崎領は木村吉清・清久に、会津は蒲生氏郷に与える。
-【葛西・大崎一揆】木村清久が名生城、木村吉清が寺池城に入るやいなや葛西氏・大崎氏らの旧臣が蜂起。木村親子はわずかな手勢とともに佐沼城に篭城。白河に滞陣していた浅野長政は、急遽、蒲生氏郷と伊達政宗に木村親子の救出を命じる。
名生城に入った蒲生氏郷は伊達政宗の家臣・須田伯耆より伊達政宗が一揆の背後にあるとの情報を得て、名生城篭城を決定。結局、伊達政宗が木村親子を救出。
豊臣秀吉は伊達政宗を疑うが無罪とする。しかし、伊達政宗の所領替えを実施。
浄法寺重安1591
天正19
【九戸の乱】九戸政実が宗家に当たる南部信直の諸城を攻める。
南部信直は豊臣秀吉に支援を依頼。豊臣秀吉は豊臣秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を派遣。小野寺義道・戸沢政盛・秋田実季、大浦為信らも加わって乱を鎮圧。
この時、浄法寺修理重安は南部信直配下として、浅野長政の指揮下に入り、姉帯城と根曽利城を攻略。その功によって5千石を得る。
-伊達政宗が岩出山城に移る。
浄法寺重好1600
慶長5
南部家中で八戸・九戸に次ぐ大身として和賀兵乱に出兵。南部利直より和賀を守るように命じられる。
1603
慶長8
和賀から無断で居城に戻ったため、知行家禄屋敷を没収される。分家の松岡家預りとなる。


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Last-modified: 2008-12-13 (土) 09:49:28 (5605d)