千葉県>戦国期の下総千葉氏>上総武田氏:〜1523年>1523年〜
上総武田氏
1523年 大永3年
- 11月
- 21日:武田信勝が死去する。
- :信勝の嫡男・武田信清が上総武田氏惣領家の当主となる。
- 武田信清は「真里谷殿位牌継図」によると、仮名:八郎五郎(真里谷武田氏歴代仮名)、官途名:式部大夫。
1534年 天文3年
- 4月
- 天文の内訌によって里見義豊が里見義堯を討つと、義豊方の天津城主・糟屋石見守が正木時忠に攻められ小田喜城主・武田朝信を頼る。
- 7月
- 11月
- 武田信清の嫡子・武田大夫(全鑑)が死去。
- 上総(真里谷)武田氏の家督を巡り内訌が生じる。
1537年 天文6年
- 5月
- 第1次上総錯乱
| 真里谷信隆派 | 真里谷信応派 |
支援 | 北条氏綱 | 小弓公方・足利義明 里見義堯 |
- 信隆と信応は兄弟。「上総武田家略系」によると武田信清の子。「上総国万利谷城主武田殿系図」(「百家系図五十三」)によると武田信秋(全方)の子とされる。
- 錯乱終了時まで、上総武田氏惣領の座は武田信隆にあったと考えられている。
- 6月
- 武田(真里谷)信隆が敗れて鎌倉へ去る。その後武蔵金沢に居を定める。
- 上総武田氏惣領の座は武田信応に。
1538年 天文7年
- 10月
- 第1次国府台(松戸相模台)合戦
小弓公方・足利義明軍 | 北条氏綱軍 |
里見義堯 真里谷信応 | 北条氏康 北条長綱 千葉昌胤 |
| 古河公方足利晴氏(義明の甥) |
- 相模台(松戸市)にて足利義明が討死し、里見義堯は壊走。
- 北条氏綱の支援のもと、武蔵金沢にいた武田信隆が上総武田氏惣領の座に復帰。
- 武田信応は安房里見義堯を頼る。
- しかし、笹子城主・武田三郎信茂、佐貫城主・武田大学頭信秋・大炊頭義信父子が武田信隆と対立。
1540年 天文9年
- 武田信隆が死去する。
- 上総武田氏惣領の座は武田信応へ。
1543年 天文12年
- 第2次上総錯乱が勃発する。
| 北条派 | 里見派 |
武田信隆重臣 | 後藤氏 | 鶴見氏 |
上総武田一族 | 小田喜城主・武田朝信(後藤氏娘婿) | 佐貫城主・武田信秋 |
支援 | 下総千葉昌胤 | 安房里見義堯 |
1553年 天文13年
- 8月
- 3日:刈屋原にて里見氏宿老・正木時忠と小田喜城主・武田朝信が干戈を交え、武田朝信が討死。
1554年 天文14年
- この頃に、北条氏によって峰上城が攻略され、武田信秋は没落。
1552年 天文21年
- 里見義堯が北条氏康との和睦の姿勢を見せたことに反発し武田信応が軍勢派遣。対して、里見義堯が上総武田領に侵攻。
- 椎名城主・武田信政が里見義堯軍に攻められ自刃。
- 里見軍に追い詰められ武田信応も自刃。
- 北条氏康が上総武田(真里谷)氏の所領を接収。
系譜
武田信清以降に関しては諸系譜に混乱があるため参考までに掲げる。