広島県>鞆の浦

山中鹿之助首塚

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鞆の浦にある。山中鹿之助は正確には山中鹿介幸盛(1545-78)。出雲守護・尼子義久(1540-1610)に仕えた。

尼子義久は居城・月山富田城を毛利元就に落城する(1566[永禄9])と、安芸円明寺に幽閉された。

その一方で、山中鹿之助は、義久の父・晴久の叔父で新宮党を率いる国久(1492-1554)の孫・勝久を還俗させ挙兵(1568[永禄11])。新山城を拠点に毛利に挑むも敗れ毛利元就の次男・吉川元春に捕らえられた。

その後、勝久とともに脱走し、織田信長に拝謁し、浦上宗景とともに織田方として、私都城にて尼子家の復興に成功する(1574[天正2])。

しかし、織田信長が毛利家を刺激することを回避し始めたため、丹波に撤退を余儀なくされる(1576[天正4])。

そして、1578(天正6)年に、羽柴秀吉の先鋒として上月城において毛利軍と対峙。

ところが、室町幕府将軍・足利義昭の命によって動いた上杉謙信と石山本願寺の攻勢に合った織田軍は播磨から撤退。途端に毛利軍の攻勢に晒された上月城は落城。

尼子勝久は自刃。山中鹿之助は毛利輝元の手によって備中国合の渡にて謀殺された。

その首は足利義昭がいた鞆の浦に送られ首実検がなされたという。今、その鞆の浦の道に首塚が立っている。

鞆の浦は日本海に面した尼子の故地とは反対の瀬戸内に面している。故郷から遠く離れた地で何を見つめ続けて来たのだろうか。



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Last-modified: 2009-12-23 (水) 17:18:57 (5232d)