後北条氏初代 北条早雲(1456−1519)諱は長氏とされてきたが、現在では盛時と考えられている。室町幕府第8代将軍足利義政の申次衆・伊勢盛定を父とする。駿河守護今川義忠が応仁の乱時に上洛した折に早雲の姉の北川殿と結婚。これが縁となり、1476(文明8)年、今川義忠が遠江国の塩売坂の戦いで西軍の遠江守護斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏に討たれると、駿河に下向。堀越公方と扇谷上杉氏の介入を排除。甥の今川氏親が成長して家督を承継すると再び下向し興国寺城を与えられた。 2代 北条氏綱(1487−1541)北条早雲の嫡男。姓を伊勢から北条に改める。北条は鎌倉幕府執権の家柄の姓であり、関東に覇を唱える意思を示したと言える。居城も伊豆の韮山城から相模の小田原城に移した。関東管領山内上杉家、扇谷上杉家の両上杉家の勢力を退け武蔵や下総に侵出。 3代 北条氏康(1515−1571)山内・扇谷両上杉家と関東の覇権を争い、扇谷上杉家を滅亡に追いやった。 4代 北条氏政(1538−1590)後北条氏の版図を最大にした。家督を氏直に譲った後、豊臣秀吉による小田原攻めに降伏。弟の氏照とともに自刃。 5代 北条氏直(1562−1591)父・氏政、叔父・氏照らの主戦派を抑えることが出来ず、豊臣秀吉による小田原攻めを許してしまう。高野山に追放されるも、後に許され狭山1万石にて家名を存続した。
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