観応の擾乱1347年(正平2年/貞和3年)南朝の楠木正行の蜂起に対して、足利直義派の細川顕氏・畠山国清が派兵されるも敗北。続いて、山名時氏が派兵されるも敗北。 四條畷の戦い / 1348年(正平3年/貞和4年)足利直義派に代わって、高師直・師泰兄弟が派兵され南朝軍を撃破。本拠地吉野を陥落させる。 1349年6月上杉重能、畠山直宗、禅僧妙吉らの進言により室町幕府将軍足利尊氏が執事・高師直を罷免。 1349年8月12日高師直は河内から軍勢を率いて上洛した高師泰とともに足利直義討伐を目指す。 1349年8月13日足利直義は兄の室町幕府将軍足利尊氏邸に避難。これに対して、高師直は上杉重能、畠山直宗の身柄引き渡しを要求。 1350年(観応元年)
1351年(正平6年/観応2年)1月
尊氏派の策謀近江の佐々木道誉、播磨の赤松則祐が南朝に通じたとして、足利尊氏が近江、義詮が播磨へと出兵。佐々木道誉、赤松則祐と尊氏父子は通じており、直義派を挟撃するための策であったと云われる。 1351年8月危険を察知した足利直義は桃井、斯波、山名らとともに京都を脱出。北陸・信濃を経て鎌倉へ。 1351年10月足利尊氏が南朝に降伏。弟・足利直義追討の綸旨を得る。 1352年(正平7年/観応3年)
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