笹岡城

新潟県阿賀野市笹岡にある城.かつて,福島潟に繋がる河川が城のすぐそばまで流れていたと考えられている.貞和年間[1345-1350]に篠岡資尚により築城されたとも,和田義盛[1147-1213]の弟・義茂を祖とする和田三浦氏[黒川・中条・関沢]の一族による築城とも伝わる.

越後国守護・上杉頼方[-1432]と守護代・長尾邦景[1365-1450]が干戈を交えた越後応永の大乱[1423-1426]において,中条房資は守護方として戦い笹岡城に派兵し籠城させている.関東公方・足利持氏[1398-1439]と室町幕府第4代将軍・足利義持[1386-1428]との対立が激化する中,室町幕府から関東内通を疑われた上杉頼方が実際に内通していた長尾邦景を討伐するために戦端を開いたのが越後応永の大乱.

越後国守護・上杉頼方には山浦上杉頼藤,中条房資・黒川基実ら揚北衆を主力とし,守護代・長尾邦景は上杉一門の三宝寺氏を擁立.守護軍は笹岡城に集結し,三条城へと進撃.しかし,黒川基実は叛旗を翻し前線と笹岡城との連絡を断つ.これに対して,山浦上杉頼藤は要請していた伊達持宗[1393-1469]からの援軍とともに黒川城を攻撃.黒川基実を切腹させている.

越後国内では越後国守護・上杉頼方が軍事的に優位に立つ一方で,応永31[1424]年に足利義持と足利持氏が和睦.長尾邦景は前守護・上杉朝方の遺児・幸龍丸[上杉房朝]が室町幕府管領・畠山満家を通じて長尾邦景陣営に迎え入れられた.これにより,長尾邦景派は幕府から公認されることとなり,越後国に両勢力が並び立つ結果となる.

応永33[1426]年,守護軍は守護代・長尾邦景の有力被官である三条城主・山吉久盛を攻める.守護軍が優位な戦況であったが,加地・新発田ら揚北衆の一部が再び叛旗を翻し守護軍の敗北を齎す.

軍事的敗北を喫し,なおかつ,室町幕府内で自らを支援していた細川満元[1378-1426]も世を去っていた関係で,越後国守護職は上杉頼方から剥奪され幸龍丸に渡された.ここに,長尾邦景は完全に復権したことになる.その一方で,和田三浦氏[黒川・中条・関沢]の一族は惣領家からの庶子家の独立が明確になっていった.

その後,弘治年間[1555-57]に笹岡城には北信濃の村上義清の子・山浦国清が城将として入り,続いて今井源右衛門が在番を勤めたことが知られている.新発田重家の乱[1581-86]の際には上杉景勝軍の前線となり,新発田治長によって攻められ落城.以降は廃城になったという.


©OpenStreetMap,N.T.

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