**浦上家
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浦上家で有名な人物と言えば大燈国師こと宗峰妙超(1282-1338)を挙げざるを得ない。
~大燈国師は播磨国浦上荘にて浦上一国(掃部入道覚性)の子として生を受けた。書写山円教寺に入り、天台宗を学ぶも、臨済宗に転向し、1315(正和4)年に[[赤松]]則村(円心)の帰依を受け、大徳寺の開山となっている。
鎌倉幕府が滅亡して間もなくの1336(建武3)年、後醍醐天皇は大徳寺に下総国葛西御厨の替地として播磨国浦上庄を寄進した。大燈国師はその半分を一族の浦上為景に委ねた。
~もともと、浦上家は武内宿禰系紀氏の流れを汲むとされ、紀長谷雄または紀貫之の子孫という伝承を持つ。
~しかし、歴史に名を現し始めるのは村上源氏の一つ播磨源氏庶流の赤松則村(円心)の被官・浦上為景が最初。
~ここで、被官と書いたが『京都八坂神社文書』によると、1339(暦応2)年に播磨国須富庄北方を巡って、地頭・成田基員と赤松円心との争いにおいて、浦上為景は成田基員の代官の擁護をしており、被官とも割り切れない地位にあったとも言える。
~鎌倉幕府倒幕の当初、護良親王派だった[[赤松]]則村は播磨守護に任ぜられるも、護良親王が失脚すると解任。これに不満を持った[[赤松]]則村は足利尊氏に与し、数々の武功を挙げ則村は再び播磨守護に、長子範資は摂津守護となった。
~[[赤松]]則村の跡は範資が亡くなっていた為、三男の則祐が惣領を継ぎ、範資の子の光範は摂津守護のみを承継した。但し、摂津守護職は細川頼元に奪われてしまっている。それでも、惣領家である赤松則祐は播磨・備前守護職を保持した。
~そのもとで、浦上家は行景、助景と備前守護代を勤めた。
1441(嘉吉元)年に、赤松満祐が将軍足利義教を殺害するという[[嘉吉の乱:http://www.digistats.net/z/index.php?%B2%C5%B5%C8%A4%CE%CD%F0%BB%CF%CB%F6]]が勃発。山名持豊(宗全)率いる幕府の追討軍に対して浦上一族も徹底抗戦。しかし、木山城にて[[赤松]]満祐が自刃。山名持豊(宗全)が播磨守護職に補任されると浦上家を始めとする旧赤松家臣も逼塞を余儀なくされる。
1~457(長禄元)年、赤松牢人石見某らが南朝に奪われていた神璽の奪還に成功。満祐の弟義雅の孫・赤松政則による赤松家再興が幕府に認められる。
~浦上則宗は政則の重臣として復興に尽力し、赤松政則が播磨、備前、美作守護、侍所所司となるや浦上則宗は所司代、山城守護代として勢力を拡張した。
~赤松政則は所領回復のために山名宗全の子の山名政豊(1441-1499)と挙げしく争った。
~流れに変化が生じたのは1483(文明15)年のことである。この年、赤松家被官の金川城主松田元成が山名家に通じて赤松家に叛旗を翻す(福岡合戦)。赤松政則は真弓峠での戦(1483)で山名政豊に敗れ播磨を席巻。事態を重く見た浦上則宗(1429-1502)は、急遽、京都から帰国(1484)。播磨国人衆は自らの所領が危うくなるという事態に浦上則宗を盟主と仰ぐに至るのである。事此処にいたって、蚊帳の外に置かれた赤松政則は和泉・堺へと落ち延びた。
~浦上則宗は小寺則職・中村祐友・依藤弥三郎・明石祐実らの諸将と謀って赤松政則を廃して、赤松刑部大輔(有馬則秀)の子・慶寿丸に家督を承継させ、播磨奪還を目指した。もっとも、足利義政の仲介により、政則と浦上則宗ら諸将は和解している。
~こうした中で、守護代職は浦上則宗・宗助・村宗三代に伝えられた。
~1499(明応8)年には浦上則宗と浦上村国との間で争いが生じ則宗は白旗城に篭城。浦上則宗は宇喜多能家によって劣勢を挽回し、浦上村国に兵を引き上げさせている。但し、その間も、備前では松田対浦上の戦いは続いていた。
~1502(文亀2)年には[[宇喜多]]能家は浦上軍を率いて宍甘村にて松田軍と干戈を交え有松右京進を討ち取った。更に、旭川の牧石の河原にて松田元勝と激突し、松田軍を敗走させるという戦功を挙げた。

~当初、[[赤松]]政則の養子で浦上家らに擁立されていた[[赤松]]義村(-1521;七条政資の子)は自立を図り、浦上村宗と対立。1518(永正15)年には居城の三石城に篭城。赤松義村がこれを包囲した。この時も、浦上村宗は宇喜多能家を中心として戦い、逆に船坂峠の戦いにて赤松義村を敗走させた。赤松義村は1520年に小寺則職に軍を率いさせ三石城を攻めにかかるも再び蹴散らされる。一連の戦いの中で小寺家が浦上家に付き、ここに浦上家の覇権が確立。赤松義村は幽閉の上、殺害された。
~その浦上村宗も、細川高国と結び、1529(享禄2)年に摂津天王寺にて討死している。
~浦上家は村宗の後、子の政宗が家督を相続。しかし、1551(天文20)年の尼子晴久による備前侵攻への対応を巡って、弟で天神山城主・宗景が対立。尼子晴久と同盟した浦上村宗と毛利元就と同盟した浦上宗景が干戈を交え、1560(永禄3)年には浦上政宗を備前東部から駆逐した。
~浦上宗景の背後には[[宇喜多]]直家があった訳だが、浦上宗景が織田信長と結ぶと宇喜多直家が離反。1577(天正5)年に、宇喜多直家に攻められ天神山城にて打ち滅ぼされた。
***系譜
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