[[清和源氏惣括]]>[[義家流(新田流)]]>[[義家流(足利流)]]
*足利義兼
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*事蹟
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|西暦|元号|月日|事蹟|
|1154|久寿元||足利義康と藤原季範の養女(実孫で藤原範忠の娘)の間に生まれる。兄弟には長兄・足利矢田判官代義清、次兄・義長がいた。|
|1156|保元元|6|鳥羽法皇が来るべき戦乱に備えて5人の武士の名を上げる。&br;下野守源義朝、足利蔵人判官源義康、兵庫頭源頼政、左衛門尉平信兼、平判官実俊|
|~|~|7/2|【保元の乱】&br;後白河天皇 vs 崇徳上皇&br;源義康は約100騎を率いて、平清盛、源義朝とともに崇徳上皇方を攻める。|
|1157|保元2|5/29|源義康が道達と号し亡くなる。&br;義兼が足利家3代目となる。&br;但し、梁田御厨は祖父義国の未亡人・蓮妙尼に伝領し、次いで長兄・義清が受け継いだ。|
|1159|平治元||【平治の乱】&br;足利義兼は幼少のため清和源氏の惣領・源義朝軍に加わらず。|
|1161|永暦2|5/1|源姓足利家と藤姓足利家の両家による4代にわたる梁田御厨の訴訟に対して平清盛が源姓足利家の勝訴の判決を下す。&br;足利義兼の伯父・新田義重は上野新田郷を花山院(藤原)忠雅に寄進。藤原忠雅の子・花山院兼雅は平清盛の娘の婿。そして、幼少の足利義兼は伯父・新田義重の庇護を受けていた。|
|1175-81|安元・治承年間||義清・義長・義兼の足利三兄弟が上洛し上西門院と八条女院暲子に仕える。&br;当時、足利荘は八条女院領。その関係で足利義兼は八条女院暲子の蔵人となった。|
|1180|治承4||後白河法皇が子・以仁王(八条女院暲子の猶子)、義妹・八条女院暲子、源三位入道頼政と平家討伐の陰謀。|
|~|~|5|平家討伐の陰謀が発覚。以仁王と源頼政が宇治川にて戦死。&br;この後、足利矢田判官代義清・義長は木曽義仲の軍に加わって平家討伐を敢行。足利義兼は足利荘に帰国中で挙兵に参加せず。|
|~|~|8|足利荘に帰国していた足利義兼が清和源氏の惣領・源頼朝の挙兵に参加。|
|~|~||平清盛が新田義重を源頼朝追討のために下向させる。新田義重は上野寺尾城にて源頼朝攻撃の準備を整える。|
|~|~|12/12|源頼朝が鎌倉大蔵郷に入る際に供奉した鎌倉武士311人の中に足利冠者義兼の名。|
|~|~|12/22|新田義重が源頼朝の軍門に下る。&br;この時点で足利・新田の命運が決定的に分かれる。|
|1183|寿永2||【備中水島合戦】&br;木曽義仲に従った足利矢田判官代義清・義長は平重衡・通盛によって敗死。|

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