[[歴史年表]]
*平城京
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&br;平城京跡を望む
**元明帝(707-715) / 藤原不比等 
-710年:平城京遷都
**元正帝(715-724) / 長屋王
-718年:養老律令制定
-720年:藤原不比等死去
-722年:百万町歩開墾
-723年:長屋王、「三世一身の法」施行。

**聖武帝(724-749) / 藤原四家--->橘諸兄--->玄昉--->吉備真備
-729年:「長屋王の変」。国家転覆の陰謀有りとの密告を受け、左大臣長屋王と妻の吉備内親王、子の膳夫王、桑田王らが自害に追い込まれる。長屋王は聖武帝の藤原不比等の子の光明子(光明皇后)の皇后立后に反対したため、長屋王を除こうと意図したとされる。
-729年:光明子立后。
-729年:武智麻呂、房前、宇合、麻呂の藤原四兄弟が天然痘によって相次いで病死。
-740年:「藤原廣嗣の乱」勃発。藤原宇合の子の廣嗣が大養徳(大和)国守から大宰少弐に左遷。
--聖武帝側近の玄昉、吉備真備を除くべく大宰府で挙兵。板櫃河会戦で廣嗣軍敗北、廣嗣らは五島列島の値嘉島で捕縛。
--同年、恭仁京へ遷都。
-741年:「国分寺建立の詔」。藤原太政大臣家の豊成、仲麻呂が宮子、光明皇后と相談の上、藤原廣嗣の乱の詫びとして封戸3000戸返上。国分寺本尊造立費用とする。
-742年:近江紫香楽宮に離宮造営。
-743年:「墾田永年私財法」施行。
--同年、毘舎那大仏造立の詔。大仏の鋳造は大仏師(主任美術家)国君麻呂、大鋳師高市大国、高市真麻呂、柿本児玉、大仏殿は大工猪名部百世、小工益田縄手。
-744年:難波宮遷都。
-745年:平城京復都。

**孝謙帝(749-758) / 藤原仲麻呂
-752年:大仏開眼供養。
-757年:「橘奈良麻呂の乱」。橘奈良麻呂が廃太子道祖王と結託し藤原仲麻呂排除と皇位簒奪を計画。事前に発覚。黄文王、道祖王、大伴古麻呂、多治比特養、小野東人、賀茂角足そして橘奈良麻呂が獄死。仲麻呂の兄の藤原豊成も三男の乙縄が奈良麻呂と親しかったために連座。

**淳仁帝(758-764) / 藤原仲麻呂
-758年:大炊王、藤原仲麻呂によって帝に擁立。仲麻呂は恵美姓を拝領。
-759年:平城京改造の間の宮として保良宮(ほらのみや)を近江国石山に造営。
この保良宮で弓削道鏡と孝謙女帝が出会う。
-760年:光明皇后薨去。藤原仲麻呂は政治的後ろ盾を失う。
--同年、孝謙女帝が親政を宣言。
-764年
--「恵美押勝の乱」。恵美押勝の専横に憤慨する藤原式家の宿奈麻呂(良継)、石上宅嗣、佐伯今毛人、大伴家持らが恵美押勝暗殺を計画するも失敗。
恵美押勝は勢いに乗って道鏡排斥に乗り出し孝謙女帝と対立。淳仁帝によって都督使に任命の上で兵力動員を発令。この発令の書くことを命じられた大外記高丘比良麻呂は発令の違法であることを怖れ孝謙女帝に報らせる。報せを受けた女帝は少納言山村王に坂上苅田麻呂、牡鹿嶋足を付けて恵美押勝を鎮圧。
--戦後、恵美押勝によって左遷されていた藤原豊成は右大臣に復権。道鏡は大臣禅師となり政治史に登場することになる。
--淳仁帝(淡路廃帝)は廃され淡路に流された。

**称徳帝(764-770) / 道鏡
-764年:孝謙女帝、重祚。
-765年:道鏡、太政大臣禅師に任命。
-766年:道鏡、法王に任命。
-769年:「宇佐八幡事件」。大宰府主神(かんづかさ)の習宜阿曾麻呂(すげのあさまろ)が道鏡が帝位に就けば天下泰平という宇佐八幡の神託を伝える。これに対して和気清麻呂が派遣されたが神託を否定したために左遷。
-770年:称徳帝崩御。
崩御に先立ち、称徳帝は道鏡を後継者に、右大臣吉備真備は天武帝皇子の長(なが)親王の子の大納言文屋浄三と参議文屋大市を、北家の左大臣藤原永手、式家の内大臣藤原良継、百川は天智帝の孫の大納言白壁王を支持。
結局、白壁王が光仁帝として即位。

**光仁帝(770-781) /
-770年:道鏡、坂上苅田麻呂の讒言により下野国薬師寺別当に左遷。

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