[[ルーツ]]>[[南関東戦国大名家]]
**常陸江戸家
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|那珂通辰|1336&br;建武3|瓜連城に楠木正家入城。那珂家所領は南北朝の激戦地となり那珂通辰討死。子の通泰のみ難を逃れる。|
|江戸通泰|-|足利方の高師泰に従って戦功。那珂郡下江戸を拝領。|
|江戸通高|1388&br;嘉慶2|江戸家2代。南朝の難台城攻略時に討死。|
|江戸通景|-|父通高の軍功により馬場大掾家旧領河和田・鯉淵・赤尾関拝領。居館を江戸から河和田に移す。|
|江戸通房|1416&br;応永23|上杉禅秀の乱で、禅秀方の山入師義(佐竹一門)、馬場大掾満幹を、関東管領上杉憲定の子の佐竹義憲とともに駆逐。馬場大掾満幹父子が鎌倉で戦死すると、水戸城を支配下に置く。|
|~|1452&br;享徳元|関東管領上杉憲実の養子・佐竹実定に与し、実定の兄の常陸守護佐竹義俊を追放。|
|~|1465&br;寛正6|江戸通房死去。常陸守護佐竹実定死去。実定の子義定が前守護佐竹義俊によって太田城を追われる。|
|江戸通長|1481&br;文明13|小幡家の小幡城を攻略(小鶴原の戦い)。後、小幡城を拠点として、南部の烟田家、徳宿家の城を攻める。|
|~|1490&br;|守護佐竹義治死去により佐竹一門の山入義藤・氏義父子が義治の子の義舜を追放。同時に、北部から伊達・葦名・白川・岩城家が、東部から結城・那須家が佐竹領に侵攻。&br;通長・通雅兄弟は佐竹義舜を支え、1509年には山入父子を滅ぼす。&br;この内乱の結果、江戸家は佐竹家から独立した対等の勢力となる。|
|江戸通泰|1512&br;永正9|第2代古河公方政氏が子の高基と対立。江戸通泰は小野崎家とともに、宇都宮家を頼った足利高基に与力し、高基を第3代古河公方とする。前公方足利政氏は小山家を頼って古河を落ちた。|
|江戸忠通|1538&br;天文7|佐竹義篤に従って、部垂城に義篤の弟・小場義元を攻める。|
|~|1543&br;天文12|佐竹義篤に従って、相馬顕胤を攻める。|
|~|1547&br;天文16|佐竹義篤を継いだ義昭と入野で交戦。翌年、大部平の戦いでは江戸家重臣・加倉井一族が討死。天文19年にも、戸村で戦い、江戸家一族の武熊家に戦死者。|
|~|1551&br;天文20|佐竹家と和睦。以降、江戸家は再び佐竹家の旗下となる。|
|~|-|新治郡・行方郡・鹿島郡に小田・大掾・宍戸・鹿島家と争う。|
|江戸重通|1585&br;天正13|大掾清幹と小川城の帰属を争う。北条氏が掩護する大掾家に対して、佐竹義重は江戸重通とともに出陣。戦乱は長引き、江戸家は弱体化。その一方で佐竹家が仲介者として戦国大名化。|
|~|1588&br;天正16|『神生の乱』勃発。&br;一族江戸通俊と重臣・神生右衛門が対立。神生一族は大部城に篭城。当主重通・通升父子は大部城を攻めるも通升が戦死。神生右衛門も額田城の小野崎家に亡命。小野崎家は伊達家の支援のもと江戸家による侵攻に耐え、神生が結城家に逃れたために講和。|
|~|1590&br;天正18|豊臣秀吉による小田原征伐。&br;佐竹義宣は宍戸・真壁家を従えて小田原参陣。しかし、江戸・大掾の両家は北条家と密かに盟約を結んでいたため、佐竹義宣に従わず。&br;佐竹義宣は豊臣秀吉より常陸一国を安堵。水戸城は佐竹軍によって落城。江戸重通は姻族である結城家に亡命。|
***系譜
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