[[群馬県]]
**二体地蔵尊
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~鎌倉幕府を倒した新田家ゆかりの地である群馬県は世良田の周辺はかつて新田荘と呼ばれた。<br>1333(元弘3)年に後醍醐天皇による倒幕目的の挙兵に対して鎌倉幕府最後の得宗・北条高時(1303-1333)は足利高氏と名越高家を上洛させる。
~一方、京都における鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題は更なる派兵を鎌倉に要請。これに対して、鎌倉幕府首脳部は得宗の弟の北条泰家(?-1335)の派遣を決定する。その軍事費を賄うため、既に得宗領となっていた新田荘に出雲介親連が徴税使として派遣された。案内人は新田荘の隣の淵名荘の得宗又代官・黒沼彦四郎入道。
~しかし、この黒沼彦四郎はかねてより新田家とは仲が良くなかった。これは、縁戚である足利家が幕府内で重んじられたのと異なり、疎んじられ続けて来た新田家が没落の故に新田荘を得宗に譲ったこととも関係している。
~その新田荘に幕府は6万貫文という軍資金を課した。6万貫文は3万石程度に当たる。それを5日の間に納めよというのが命令だった。これを聞いて堪忍袋の緒が切れた新田義貞と家臣達は黒沼彦四郎入道と黒沼彦四郎を捕らえて斬首し晒し首とした。その地がこの写真の地であり、後に供養のために建立されたのが二体地蔵である。
~なお、既に鎌倉幕府の命令に反して京都の戦線を離脱していた新田義貞は、窮鼠猫を噛むで倒幕の挙兵を敢行する。
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