神八井耳命 | 神代 | 神武天皇の皇子で、第2代天皇の綏靖天皇の同母兄。阿蘇氏の祖。 |
健磐龍命 | 神代 | 神八井耳命の子。阿蘇に土着し阿蘇都彦と名乗る。 |
阿蘇友成 | 901-22 延喜年間 | 肥後国一の宮の大宮司となる。 以降、阿蘇神社大宮司職を世襲。宇治友成とも言う。 |
阿蘇惟次 | 1207 承元元 | 南郷から矢部に本拠地を移す。 |
1222 貞応元 | 岩尾城、愛藤寺城を築く。 |
阿蘇惟直 | 1333 元弘3 | 菊池武時らとともに後醍醐天皇の綸旨を受け、赤橋久時の子・鎮西探題北条英時を博多の探題館に討とうとする。しかし、島津貞久、少弐貞経の裏切りによって、菊池武時、頼隆らは討ち取られ、阿蘇惟直は矢部に落ち延びる。 |
鎮西探題北条英時は、一門の規矩高政を将として討伐軍を発し、菊池城、阿蘇大宮司館を攻撃、惟直は菊池武敏とともに日向鞍岡城に篭城。 |
足利尊氏の挙兵を受けて、島津貞久、少弐貞経が鎮西探題北条英時を討つ。 |
1335 建武2 | 【中先代の乱】最後の得宗北条高時の遺児北条時行が信濃諏訪家の支援によって蜂起。鎌倉から足利直義を追い出した。これに対して、京都から足利尊氏が後醍醐天皇に無断で鎌倉に出兵し鎮圧。その後も鎌倉に留まり後醍醐政権と距離を置く。 【箱根竹の下戦い】新田義貞の要請により後醍醐天皇は足利尊氏討伐を決定。新田義貞は尊良親王を奉じて鎌倉に進軍。途上、箱根竹の下で足利尊氏軍と激突。阿蘇惟時・上島惟頼・阿蘇品惟定らの阿蘇一族も新田軍として戦うも敗戦。 |
阿蘇惟時 | 1336 元弘3 | 【多々良浜の戦い】菊池武敏は九州に上陸した足利尊氏、これを支える少弐頼尚と多々良浜で干戈を交える。戦力は菊池軍が優勢であったが、松浦党の裏切りなどがあり菊池武敏は大敗。友軍の阿蘇大宮司惟直とその弟・惟成が肥前天山で戦死。 足利尊氏は、一色範氏を残し(九州探題)、少弐頼尚と大友氏泰を率いて京都を目指した。 阿蘇惟時は惟直に家督を譲っていたが、惟直が自刃したことで、再び家督を承継。これに対して、戦いに勝利した足利尊氏は坂梨孫熊丸を阿蘇大宮司に任命する。 |
阿蘇惟澄 | 1337 延元2 | 足利方の坂梨孫熊丸、中立の阿蘇惟時とは違って一貫して宮方の阿蘇惟澄は甲佐嶽で挙兵。 九州探題一色範氏の一族・一色頼行を犬塚原を討ち取り矢部を回復。しかし、少弐頼尚、仁木義長の侵攻に苦戦する。 |
1339 延元4 | 仁木義長、大友方の野津氏を破り、阿蘇を回復。 これにより、阿蘇惟時は甲佐に逃れ少弐頼尚の庇護を受ける。 |
1346 正平元 | 少弐頼尚を撃退。翌年、少弐・大友連合軍も撃退。 |
1349 正平4 | 足利方に与していた阿蘇惟時が阿蘇家内の混乱を収拾するために南朝に下る。これによって、阿蘇家が惟澄のもとで一本化。 |
1361 正平16 | 太宰府を支配下に置く。阿蘇惟澄は征西府から大宮司職を拝命。 |
阿蘇惟村 | 1364 | 阿蘇惟時の娘婿・阿蘇惟澄の子。阿蘇惟時の養嗣子。この年に家督を承継し、後、肥後守護に任ぜられる。 一方、征西府は惟村を認めず、惟武を大宮司に補任し、再び阿蘇家が南朝系大宮司阿蘇惟村と北朝系大宮司阿蘇惟武の二派に分裂。 |
阿蘇惟武 | 1377 天授3 | 九州探題今川貞世が九州を足利方の勢力圏に塗り替えていく。その中、阿蘇惟武は菊池武朝とともに肥前国府近くの蜷打にて、大内義弘、大友親世らと干戈を交える。この戦いで、阿蘇惟武、菊池武義・武安が討死。阿蘇大宮司職は嫡男・惟政が承継。 |
阿蘇惟政 | 1392 明徳3 | 【南北朝合一】 |
1398 応永5 | 【九州南北朝合一】今川了俊解任後の九州探題渋川満頼と大内義弘に抵抗を続けてきた菊池武朝が幕府に帰服。 |
阿蘇惟郷 | 1417 応永24 | 阿蘇惟村は惟郷に大宮司職を譲渡。室町幕府将軍足利義持は御教書を下して惟郷の立場を公認。 これに対して、阿蘇惟政の跡を継いだ惟兼は南郷水口城に篭城。 |
阿蘇惟忠 | 1431 永享3 | 阿蘇惟郷から大宮司職を承継。将軍足利義教からも安堵。 |
阿蘇惟歳 | 1451 宝徳3 | 【阿蘇家再統一】阿蘇惟忠は惟兼の子の惟歳に家督を譲渡し阿蘇家を統一。 |
1485 文明17 | 【幕平合戦】大宮司阿蘇惟歳は菊池重朝を頼って、阿蘇惟忠から政治的実権を取り戻し、阿蘇家の実権の掌握を目指す。一方、阿蘇惟忠は阿蘇家の譜代衆の力の結集を目指している最中に死去。阿蘇惟忠の子の惟憲は人吉の相良家を頼った。 ここに、菊池重朝の叔父で肥後守護職を狙う宇土為光、葦北郡の領有を主張する人吉の相良家に対して、菊池重朝と同じく葦北郡の領有を主張する八代の名和家が阿蘇家の内紛に際して矢部馬原で干戈を交える。菊池家は敗れ肥後南部の守護権を喪失。阿蘇家は惟忠系の惟憲が大宮司職を継承。 |