奥州戦国大名家

阿曽沼家

事蹟

足利広綱1189
文治5
藤原秀郷の流れを汲む足利七郎有綱の四男で、下野国安蘇郡阿曽沼郷を本拠としていたが、源 頼朝による奥州征伐に参加し、閉伊郡遠野保を得る。
阿曽沼朝綱1213-18
建保年間
父・足利広綱より下野国安蘇郡阿曽沼郷、閉伊郡遠野保を相続。但し、下野国安蘇郡阿曽沼郷に居を置き、遠野保へは代官を派遣。
阿曽沼弘綱1368
応安元
沼田城における新田義宗の挙兵に参加。
阿曽沼秀氏1437
永享9
【岳波太郎の乱】気仙沼の岳波太郎、唐鍬崎四郎の兄弟が閉伊の大槌孫三郎と気仙沼を支配下に納めつつあった千葉伯耆守を排除。しかし、阿曽沼秀氏が与しなかったため、阿曽沼秀氏は護摩堂山・横田城を岳波太郎、唐鍬崎四郎に攻撃される。
阿曽沼秀氏は南部守行に援軍を求め撃退。ところが、南部守行は大槌孫三郎の大槌城を攻略中に討死。
阿曽沼秀氏は阿曽沼弘綱の子ではなく、安芸阿曽沼家の出身との説あり。そのために、国人衆との間に隔たりか。
-1467
応仁元
【応仁の乱】勃発。
-1471
文明3
室町幕府が伊達成宗らに古河公方足利成氏の討伐を命じる。
-1473
文明5
室町幕府が石川家に伊達成宗の討伐を命じる。
-1474
文明6
岩城親隆、岩城政朝が一揆を誓約。
-1482
文明14
葦名盛高が猪苗代城に入城。
-1483
文明15
伊達成宗が上洛し、室町幕府将軍足利義尚、義政に謁見。
-1484
文明16
葦名盛高が二階堂盛義を磐瀬城に攻める。
-1488
長享2
大崎義兼が家中騒動により伊達尚宗を頼る。
-1489
延徳元
伊達尚宗、葦名盛高、岩城重隆、結城政朝らが常陸国に侵攻し佐竹義治と干戈を交える。
-1491
延徳3
南部光信が津軽支配のために種里城に入城。
-1494
明応3
伊達尚宗が家中騒動により追放され葦名盛高のもとへ落ち延びる。
-1503
文亀3
葦名盛高、伊達尚宗が二本松の支配権を廻り猪苗代で対峙。伊達尚宗は越後上杉家に援軍を請う。
-1505
永正2
葦名盛高が子の葦名盛滋と干戈を交え、長井に落ち延びる。
-1506
永正3
葦名盛滋が会津黒川城に葦名盛高を襲撃。
-1523
永正10
砂越氏雄が武藤澄氏と田方郡で干戈を交え敗れる。
-1524
永正11
最上義定と伊達稙宗(将軍足利義稙から偏諱を受けていた)と長谷堂で干戈を交える。
-1523
大永3
伊達稙宗が陸奥国守護職に任ぜられる。
-1528
享禄元
葛西晴重の死後、伊達稙宗、葦名盛舜が葛西家の石巻城を攻略。以後、伊達稙宗の子・晴胤が葛西家の家督を相続。
-1533
天文2
伊達稙宗が土倉の規定を制定。
-1536
天文5
伊達稙宗が分国法「塵介集」を制定。
伊達稙宗が大崎義直を支援し古川城を攻める。
葦名盛氏と田村隆顕が同盟を結ぶ。
-1538
天文7
大崎義直が室町幕府将軍足利義晴に進物を献上。
-1539
天文8
南部安政が室町幕府将軍足利義晴から偏諱を受け晴政を名乗る。
-伊達稙宗が越後村上城主・本庄房長を攻める。
-1540
天文9
伊達晴宗が父・伊達稙宗を陸奥西山城に幽閉。
-最上義守が置賜郡に侵攻し伊達晴宗と干戈を交える。
-1541
天文10
【天文の乱】伊達晴宗とが父・伊達稙宗が干戈を交える。
伊達稙宗に呼応し、大崎義宣、葛西晴胤が伊達晴宗と干戈を交える。
佐竹義篤が伊達晴宗に与力し相馬顕胤と久保田で干戈を交える。
伊達稙宗が刈田、柴田郡に侵攻。
-1551
天文20
葦名盛氏・畠山尚国が結城晴綱の仲介によって田村隆顕と和睦。
-1555
弘治元
伊達晴宗が陸奥探題に補任される。
-1560
永禄3
最上義守が寒河江城主・大江兼広と干戈を交える。
-1562
永禄5
秋田愛季が扇田長岡城を攻め浅利則裕を討死させる。
-1566
永禄9
伊達輝宗と葦名盛氏が和睦。
-秋田愛季が南部晴政から鹿角郡を奪い手中に収める。
-1569
永禄12
南部晴政が秋田愛季から鹿角郡を奪い返す。
-1571
元亀2
大浦為信が石川城主・南部高信、和徳城主・小山内讃岐を攻める。
-1573
天正元
【室町幕府滅亡】
-1574
天正2
伊達輝宗と最上義光が村山郡千石で干戈を交える。
-1578
天正6
最上義光が上山満兼を討つ。
阿曽沼広郷1579
天正7
織田信長に白鷹を送る。
この頃、田瀬・鱒沢・小友・綾織・宮森・大槌・釜石の遠野十二郷を支配。
葛西家領岩谷堂城主・江刺重恒を攻めるも苦戦し撤兵。
葛西家臣只野・民部・川上・土佐・千葉・安芸らが遠野城を攻めるも撃退される。。
1582
天正10
庄内尾浦城主・大宝寺義氏が秋田愛季と干戈を交える。
庄内尾浦城主・大宝寺義氏が最上郡の清水義氏を攻める。
【本能寺の変】
由利衆が小野寺家を大沢に攻める。
1583
天正11
秋田愛季が庄内地方に侵攻し大宝寺義氏と干戈を交える。
秋田愛季が比内城主・浅利義正を檜山城に招いて謀殺する。
1584
天正12
浅利頼平と大浦為信が比内地方に侵攻。
1585
天正13
【高田原の変】伊達政宗との和睦会議の席上、畠山(二本松)義継が伊達輝宗を拉致。伊達政宗の追撃により、畠山(二本松)義継、伊達輝宗ともに討死。
【仙道人取橋の戦い】伊達政宗が畠山家を支援する佐竹、葦名、岩城家と干戈を交える。
1586
天正14
【有屋峠の戦い】小野寺義道が最上義光と干戈を交える。
大浦為信が比内侵攻のために碇ヶ関道を開く。
1587
天正15
【唐松野の戦い】秋田愛季と戸沢盛安が干戈を交える。
1588
天正16
秋田実季が大浦為信の領内通行を拒否。
佐竹義重が伊達政宗の郡山包囲を妨害。
伊達政宗と最上義光が和睦する。
本庄繁長が最上義光を破る。
伊達、最上、佐竹家等が豊臣秀吉と徳川家康の仲介によって和睦する。
1589
天正17
豊島道季が湊城で蜂起する。
秋田実季と大浦為信が浅利与一を討伐。
【摺上ヶ原の戦い】伊達政宗が葦名義広を破る。
伊達政宗が会津黒川城に入城。
豊臣秀吉が伊達政宗の葦名攻めに対して、上杉、佐竹家に伊達政宗討伐を命じる。
伊達政宗が須賀川城を落城させる。
豊臣秀吉が関東の雄・北条家の討伐を布告する。
1590
天正18
秋田実季が南部信直から比内地方を奪還する。
角館城主・戸沢盛安、津軽為信、伊達政宗、最上義光が小田原に参陣。
豊臣秀吉が伊達政宗が攻め取った会津黒川城を没収。
南部信直が小田原に参陣し津軽を安堵される。
豊臣秀吉が上杉景勝、大谷義継に大宝寺領庄内三郡の検地を実施させる。
【奥州仕置】豊臣秀吉が会津黒川城に入城。小田原に参陣しなかった 阿曽沼広郷、大崎義隆、葛西晴信、和賀忠親、田村宗顕、石川昭光,白河義親の所領を没収。最上義光、相馬義胤、秋田実季、津軽為信、南部信直、戸沢盛安の所領を安堵。伊達政宗は減封とした。
葛西・大崎領は木村吉清・清久に、会津は蒲生氏郷に与える。
阿曽沼広郷は独立した大名ではなく南部家の家臣として存続。
【葛西・大崎一揆】木村清久が名生城、木村吉清が寺池城に入るやいなや葛西氏・大崎氏らの旧臣が蜂起。木村親子はわずかな手勢とともに佐沼城に篭城。白河に滞陣していた浅野長政は、急遽、蒲生氏郷と伊達政宗に木村親子の救出を命じる。
名生城に入った蒲生氏郷は伊達政宗の家臣・須田伯耆より伊達政宗が一揆の背後にあるとの情報を得て、名生城篭城を決定。結局、伊達政宗が木村親子を救出。
豊臣秀吉は伊達政宗を疑うが無罪とする。しかし、伊達政宗の所領替えを実施。
1591
天正19
【九戸の乱】九戸政実が宗家に当たる南部信直の諸城を攻める。
南部信直は豊臣秀吉に支援を依頼。豊臣秀吉は豊臣秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を派遣。小野寺義道・戸沢政盛・秋田実季、大浦為信らも加わって乱を鎮圧。
伊達政宗が岩出山城に移る。
阿曽沼広長1600
慶長5
南部利直の最上出兵に従軍中に、一族で南部利直の妹を妻に持つ鱒沢広勝と家老上野丹波、平清水鶴賀によって居城である遠野城を奪われる。妻子は江刺郡境五輪峠で殺害され、義父であり分家筋でもある世田米修理広久の気仙郡世田米城に逃れる。
-【平田坂の戦い】阿曽沼広長は旧葛西家臣とともに平田坂にて遠野城主鱒沢広勝を討ち取る。
-【赤羽根峠の戦い】再び出兵するも敗退。
-【樺坂峠の戦い】鱒沢に出兵。鱒沢広勝の子・広恒と干戈を交えるも平清水鶴賀によって撃退される。この戦いを最後に阿曽沼広長の遠野奪回の夢は潰えた。


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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:28:20 (5179d)