近江国(滋賀県) 金剛輪寺近くの国民宿舎で昼食をとった後に、そこから徒歩で金剛輪寺へ。 金剛輪寺は聖武帝の祈祷寺として行基が天平13(741)年に開山。その創建には地元の有力豪族である依智秦氏が関係したと考えられている。嘉祥年間(850)に慈覚大師が来山し天台宗となる。 それだけではない。 寿永2(1183)年には、源 義経が源 義仲追討の祈願のために篭ったとされているし、文永弘安の役(元寇)の際には北條時宗の命を受けた近江守護佐々木頼綱が元軍降伏の祈祷を行わせたことでも知られる。元軍降伏の祈祷への感謝のしるしとして佐々木頼綱は弘安11(1288)年に本堂の大慈悲閣を再興した。 この時期以来、多くの僧坊が立ち並び隆盛を誇った。今でも参道の脇に空き地がありかつての跡を偲ぶことが出来る。 応仁の乱の時には佐々木六角氏や京極氏の近江を舞台にした争いの余波を受けた。しかし、僧兵で武装して山を守り抜いた。 しかし、織田信長の前に存亡の危機に直面する。 永禄11(1568)年、織田信長は観音寺城に拠った佐々木義賢・義治父子を攻め観音寺城を落城させる。佐々木父子は家臣の鯰江満介・貞景によって鯰江城に迎え入れられる。鯰江城は反織田軍の一大拠点となっていく。これに対して織田信長は天正元(1573)年に柴田勝家を派兵し鯰江を総攻撃した。この時、湖東三山の一つ、百済寺が鯰江氏を支援。激怒した織田信長は百済寺を焼き討ちにする。この時、金剛輪寺も焼き討ちにあった。 但し、全山灰燼に帰することは免れ本堂、三重塔、二天門は現在にその姿を伝えている。 とは言っても、この信長の焼き討ちによってかつての隆盛は消え去ってしまった。 後に、徳川家康が30石を寄進、彦根の井伊直孝、天海僧正の助力によって復興される。加えて、寛永9(1632)年には正親町帝の孫に当たる良恕親王が金剛輪寺に入るなどしている。 こうして、12坊、末寺2寺を営むものの、明治維新によって本坊明寿院を残して上げ地となってしまう。 このように、織田信長による焼き討ちと明治維新による2度の危難を乗り越えて、ここに荘厳な趣きの金剛輪寺がある。 似たお地蔵様はいるだろうか。二天門へと続く参道の側の地蔵堂の周辺には多くの像が立ち並ぶ。
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