大阪の史跡

豊臣秀頼・淀殿自刃の地

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大阪城の山里丸のあった地。ここ山里丸の蘆田矢倉において、1615(慶長20)年の大阪夏の陣で豊臣秀頼(1593-1615)と母・淀殿(1569-1615)が自刃した。

豊臣秀頼は従兄で関白の豊臣秀次が秀吉に対する謀反の嫌疑によって切腹させられた後に豊臣氏の家督承継者となる。

しかし、関が原の戦いの後、徳川家康の手によって大名への預け地が削減され220万石から摂津・河内・和泉65万石の大名となることを余儀なくされる。さらに、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を構えてからは幕府機構に組み込まれた。

但し、豊臣秀頼は徳川家康に臣下の礼をとっておらず、幕府機構の中に組み込まれつつも、徳川家の主君としての形式的な地位を保ち続けた。この背景には徳川家による天下支配はあくまでも豊臣秀頼が関白職に就くまでの中継ぎと考えられていたことも寄与していたことであろう。

そうした状態に徳川家康が安住出来るはずもなく、1614(慶長19)年には方広寺鐘銘事件を契機として、大阪冬の陣が勃発。不安定な関係の清算が徳川方からなされる。この戦いには真田信繁(幸村)、筑前国福岡藩主・黒田長政と対立し出奔した元益富城主・後藤基次(又兵衛)、関が原の戦いで改易された土佐国主・長宗我部盛親、同じく毛利勝永、元・宇喜多氏執政・明石全登らが豊臣秀頼方として参加。真田信繁(幸村)は真田丸出城に陣を構え、徳川家康は茶臼山陣城に本陣を置き指揮を執った。

ところが、大野治長や淀殿の主張によって、大阪城の堀の破却を条件として和議が成立した。ここに大阪城は堀を失い丸裸となる。その上で、徳川家康は大阪城に集まっていた諸将の追放と国替えを迫った。

豊臣方は、これを呑めるはずもなく、翌1615(慶長20)年には再び豊臣方と徳川方の戦いとなる。この時は真田信繁(幸村)は茶臼山陣城に陣を構え、毛利勝永らと善戦し、一時は徳川家康本陣に肉薄することもあったという。

真田信繁(幸村)隊が圧し戻され壊滅すると豊臣方は総崩れとなる。毛利勝永は、これを収容して大阪城への退却の指揮を執り、追撃してきた藤堂高虎隊を打ち破った上で大阪城へと撤収。

もはやこれまでと観念した豊臣秀頼は大阪城山里丸の蘆田矢倉にて毛利勝永の介錯によって自刃して果てた。毛利勝永も主君の後を追っている。

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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:27:39 (3791d)