九州地方南部戦国大名家

菊池家

事蹟

藤原蔵規(政則)1019
寛仁3
【刀伊の入寇】遼(Liao Dynasty;916-1125)の女真族(満州族)を中心とする海賊が壱岐・対馬、筑前怡土を攻撃。対馬守遠晴は大宰府に避難、壱岐守藤原理忠は玉砕。大宰権帥藤原隆家が大宰府の軍勢を率いて撃退。この時の戦功によって肥後菊池郡司、鞠智城主藤原蔵規(政則)は対馬守を賜る。
大宰少監藤原則隆1070
延久2
大宰府天満宮赤星荘園の荘官として下向。菊池深川に居を構える。
菊池隆直1180
治承4
【鎮西養和の内乱】平家一門による九州支配と国人の組織化に対抗し、源 頼朝の挙兵を好機として叛乱。平宗盛は源 頼朝の追討に兵を割いたため九州に直接派兵出来ず。大宰府官大蔵家惣領・原田種直を大宰少弐に任命し、菊池隆直の追討を命じる。
叛乱は平家方原田軍に鎮圧され、以降、菊池家は平家方に組み込まれる。
1183
寿永2
木曽義仲に京都を追われた平家一門が安徳天皇を奉じて大宰府入り。平家に従っていた菊池隆直は菊池郡に引きこもる。豊後に下向していた豊後守藤原頼輔(難波・飛鳥井両家祖)は平重盛の配下で宇佐神宮荘園・緒方庄の緒方惟栄を説得し反平家の軍勢を催す。この中に、臼杵、長野、松浦党、菊池、阿蘇の諸家あり。
鎌倉時代は、原田種直(岩戸少卿大蔵種直)の大宰少弐職は武藤(少弐)家に岩戸少卿跡として承継され、菊池家は単なる御家人としての地位に留まる。
但し、菊池能隆は肥後守護大友能直の娘を正室に迎え地位向上を目論む。
菊池武村1304
嘉元2
菊池武房の孫・時隆と子弟・武本が争い共に討死。菊池家の家督は時隆の弟・武時が相続。武本の子・武村は肥後を去り甲斐に向かう。
菊池武時1333
元弘3
後醍醐天皇方に与し、鎮西深題・北条英時を博多探題館に攻めるも、少弐貞経、大友頼泰の内通によって討死。
この戦いによって、菊池家と少弐家、大友家は対立関係となる。
菊池武重1335
建武2
【中先代の乱】最後の得宗北条高時の遺児北条時行が信濃諏訪家の支援によって蜂起。鎌倉から足利直義を追い出した。これに対して、京都から足利尊氏が後醍醐天皇に無断で鎌倉に出兵し鎮圧。その後も鎌倉に留まり後醍醐政権と距離を置く。
【箱根竹の下戦い】新田義貞の要請により後醍醐天皇は足利尊氏討伐を決定。新田義貞は尊良親王を奉じて鎌倉に進軍。途上、箱根竹の下で足利尊氏軍と激突。新田軍にあった菊池武重は菊池千本槍によって奮戦。
1336
建武3
足利尊氏が京都に進軍。これを追って、奥州から北畠顕家が上京。足利尊氏は京都を追い出され九州に逃れる。
武重の留守を守る菊池武敏が足利方の肥後国守護少弐頼尚と戦い、有智山城にて少弐頼尚の父・少弐貞経を自害に追い込む。
【多々良浜の戦い】勢いに乗った菊池武敏は九州に上陸した足利尊氏、これを支える少弐頼尚と多々良浜で干戈を交える。戦力は菊池軍が優勢であったが、松浦党の裏切りなどがあり菊池武敏は大敗。友軍の阿蘇大宮司惟直とその弟・惟成が肥前天山で戦死。
足利尊氏は、一色範氏を残し(九州探題)、少弐頼尚と大友氏泰を率いて京都を目指した。
【備中福山城の戦い】菊池武重は新田義貞軍にあって東上する足利直義と備中福山城で戦うも敗れて退却。
【兵庫湊川の戦い】菊池武吉が楠木正成、正季とともに自刃。
後醍醐天皇が足利尊氏の申し入れを受け持明院統に神器を渡し比叡山を降りる。菊池武重は軟禁される。後、後醍醐天皇が吉野に逃れると、菊池武重も脱出し肥後に帰国。
1338
建武5
【鞍岳麓の戦い】甲斐菊池重村が大友軍とともに北朝方として菊池宗家を攻撃するも敗退。
なお、甲斐菊池家は鎌倉時代末期に宗家と争い討死した菊池武本の子の武村が甲斐に落ちたのが始まり。甲斐菊池重村は日向土持家を頼り日向甲斐家を興す。
菊池武光1347
正平2
懐良親王が宇土津に上陸すると、菊池武光が隈部山城に迎える。
1349
正平4
【観応の擾乱】足利直義の命で中国探題として備後に下向した足利直冬が執事高師直に急襲され肥後河尻の河尻幸俊のもとに逃れる。
少弐頼尚は九州探題一色範氏との対立から足利直冬に与す。
1350
正平5
足利直冬(佐殿)が大宰府を制圧。
1351
正平6
菊池武光と深い関係にあった阿蘇本末社領地頭職恵良惟澄が足利直冬と干戈を交える。九州探題一色範氏も南朝方に下って直冬に対峙。
1352
正平7
足利直義が毒殺されると後ろ盾を失った直冬は九州を退去。
南朝から離反した一色範氏は長門に逃亡。
菊池武光は征西府から肥前・筑前守護職を賜る。
しかし、大友氏時と少弐頼尚が連合の必要なしとして南朝方から離反。
1359
正平14
【筑後川の合戦】懐良親王(将軍宮)、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝勢約4万と北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万が対峙。
少弐直資は戦死し、少弐家の没落の契機となる。一方、菊池家は肥後・肥前・筑前守護となった。
1370
応安3
室町幕府将軍足利義満と管領細川頼之は今川了俊を九州探題として派遣。12月に豊前門司に上陸。
1371
応安4
菊池武安軍を肥前で敗った九州探題今川了俊が大宰府を包囲。菊池武光は懐良親王(将軍宮)を奉じて筑後高良山に退避し征西府が崩壊。同年、戦傷がもとで菊池武光が死す。
菊池賀々丸
後の武朝
1374
応安7
【筑後福童原の戦い】菊池軍は九州探題今川了俊に敗れ筑後高良山から菊池郡に撤退。
菊池武朝1375
永和元
九州探題今川了俊が菊池家殲滅のために山鹿地方に進撃。進撃に際して、島津氏久、大友親世、少弐冬資の九州三人衆に参陣を求めるが少弐冬資が応じなかったために殺害。菊池武朝の奮戦によって今川了俊は肥前に撤退。
1378
永和4
九州探題今川了俊が大内義弘、大友、少弐、吉川、新納、橘薩摩の諸家を動員して、菊池家の本拠・隈部山城を攻撃。敗れた菊池武朝は懐良親王(将軍宮)を継いだ良成親王を奉じて八代城に落ち延びる。
1386
至徳3
八代城落城。
1391
明徳2
八代古麓にて菊池武朝は今川了俊と和睦。ちなみに、南北両朝合体は翌年。菊池武朝は守護代として位置づけられた。
菊池為邦1465
寛正6
【高良山の戦い】1462室町幕府将軍足利義政が大友政親に筑後半守護職を与えていたが、これに反発し菊池為邦が挙兵。敗れて筑後守護職は大友家に奪われる。
菊池重朝1485
文明17
【幕平合戦】重朝の叔父で肥後守護職を狙う宇土為光、葦北郡の領有を主張する人吉の相良家に対して、菊池重朝と同じく葦北郡の領有を主張する八代の名和家が阿蘇家の内紛に際して矢部馬原で干戈を交える。菊池家は敗れ肥後南部の守護権を喪失。
菊池武運1501
文亀元
宇土為光が菊池武運の留守を付いて隈府城を乗っ取り肥後守護を称する。有馬家を頼った菊池武運(能運)は城を取り戻し、宇土為光を自刃に追い込む。しかし、菊池武運(能運)も戦傷により没する。
菊池政隆1505
永正2
菊池家家臣84名が連名で阿蘇大宮司惟長を守護職として推戴。阿蘇大宮司惟長の縁戚である大友義長の支援によって惟長が菊池武経として迎え入れられ、菊池政隆は相良長毎を頼って落ち延びる。
1509
永正6
菊池政隆は城政元、隈部鎮治、山鹿重詮の支援のもと大友親治方の朽網親満と臼間野荘桜馬場で戦うも敗れ久米安国寺にて自刃。
菊池武経1511
永正8
菊池家家臣団の反抗にあった菊池武経は家督を放棄。
隈部親氏、長野運貞、内空閑重載は庶流の武包を守護として擁立。
菊池武包1523
大永3
大友義鑑によって、義鑑の弟・重治(菊池義武)に菊池家を乗っ取られた武包が玉名筒ヶ嶽にて挙兵。大友方の阿蘇惟豊の将・甲斐宗運(日向甲斐家;菊池家分流)によって敗れて菊池家は断絶。


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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:01:59 (5172d)