西暦 | 元号 | 月日 | 事蹟 |
1142 | 康治元 | 10 | 源義国が梁田郡・足利郡の開拓地を鳥羽法皇の安楽寿院(京都市伏見区)に寄進し足利荘が成立する。この足利荘は鳥羽法皇の寵愛を受けた美福門院得子を経て後白河法皇の妹・八条女院障子が領した(八条院領荘園)。 |
1143 | 康治2 | | 源義国が梁田郡の開拓地を伊勢内外宮に寄進し梁田御厨が成立。 |
1145-51 | 久安年間 | | 足利郡と梁田郡を侵食された藤姓足利家綱が梁田御厨の口入神主・荒木田元定を利光に代え梁田御厨の実権を奪おうと画策。 これに対し、源義国が上洛し鳥羽法皇への直訴を目指す。 共に上洛した義国の次男・義康が鳥羽上皇に北面武士として仕え陸奥守に任官。また、義康は熱田大宮司藤原季範の養女(実孫)と結婚し、相聟となった源義朝との関係を深める。 |
1150 | 久安6 | | 右大将藤原実能と源義国の行列が衝突し乱闘。無位無官の源義国は近衛天皇の勅勘を蒙り帰国し隠退蟄居。 源姓足利家の惣領は次男・義康が承継。 長男・義重は藤姓足利家の勢力圏内である新田郡を開拓。この開拓により、藤姓足利家と結んだ武蔵国の秩父家、源義賢と対立を深める。 |
1154 | 久寿元 | | 源義国が足利前式部大夫から荒加賀入道と名乗りを変え出家。 |
1155 | 久寿2 | 6/26 | 源義国が新田郡内にて亡くなる。新田郡岩松郷の青蓮寺に葬られる。 |
1156 | 保元元 | 6 | 鳥羽法皇が来るべき戦乱に備えて5人の武士の名を上げる。 下野守源義朝、足利蔵人判官源義康、兵庫頭源頼政、左衛門尉平信兼、平判官実俊 |
7/2 | 【保元の乱】 後白河天皇 vs 崇徳上皇 源義康は約100騎を率いて、平清盛、源義朝とともに崇徳上皇方を攻める。 |
1157 | 保元2 | 5/29 | 源義康が道達と号し亡くなる。 |