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浪岡御所

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浪岡駅からタクシーに乗って浪岡八幡宮を経て浪岡城址へ。

浪岡八幡宮と浪岡城址は目と鼻の先。道路を隔てて少し離れているだけ。丁度、浪岡川と正平津川の合流地点に浪岡城址がある。こういうと、川と川に挟まれている場所が浪岡城址のように感じる。しかし、「丘」は浪岡川の横にある。

ここは、浪岡御所と呼ばれた北畠氏が城主を務めた城。

現在は公園となっており、訪れた当日も花見の人々が繰り出していた。城は8つの曲輪からなり、それぞれは二重堀によって区画されている。この規模は、流石は北畠氏といったところ。

浪岡城は1578(天正6)年に津軽為信によって落城。浪岡御所北畠氏も命運を伴にした。

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事蹟

1333(元弘3)10月北畠顕家が陸奥守に受任。義良親王を奉じて陸奥に下向。
1335(建武2)鎌倉幕府執権・北条家残党による『中先代の乱』勃発。
叛乱を鎮圧した足利尊氏は鎌倉の居座る。これに対して新田義貞が尊氏討伐軍を率いて箱根竹之下にて合戦するも敗北。後醍醐天皇による建武新政が崩壊。
奥州の北畠顕家が伊達・南部・結城氏を率いて鎌倉、京都に進撃。足利尊氏を九州に駆逐し奥州に帰還。
1338(延元3)5月北畠顕家が結城宗広・二階堂行朝・伊達行朝・葛西清貞・南部師行を従えて再び上京。斯波家長を鎌倉で撃破し、美濃青野原でも幕府軍を撃破。
しかし、奈良般若坂で高師直に敗れる。更に、摂津阿倍野にて高・細川軍に敗れ石津にて、北畠顕家、南部師行ともに戦死。
北畠顕家の弟の顕信が陸奥介・鎮守府将軍に任ぜられ義良親王を奉じて伊勢を出立。しかし、途中、暴風雨に遭い難破。義良親王は伊勢に漂着。顕信は南部氏、伊達氏、田村氏らによって宇津峰城に迎え入れられる。
1347(正平2)室町幕府軍によって霊山城、宇津峰城落城。北畠顕信は北上。
この時、北畠顕家の嫡男であり行岡(浪岡)右兵衛太夫秀種の娘の子である北畠顕成は南部氏を頼る。
1351(正平6)『観応の擾乱』が勃発。足利尊氏と直義兄弟が対立。
この機に乗じて、北畠顕信は多賀国府を攻略。北畠顕信は再び霊山城、宇津峰城を本拠とする。
1352(正平7)多賀国府が室町幕府軍の奥州管領・吉良貞家によって奪還。
1353(正平8)5月宇津峰城が落城。鎮守府将軍・北畠顕信は出羽藤島城に退く。
1394-1428北畠顕成の孫・顕邦が南部領船越から浪岡の東山根(源常館)に入る。
1467-1469北畠顕邦の子の顕義が浪岡城を築城。
1555弘治元年津軽地方での一定の勢力を確保した北畠顕義の孫・具永が没する。子の具統は早世していたために、浪岡御所の地位は孫の具運が継承。
1562(永禄5)正月『川原御所の変』。北畠具永の次男・具信(川原御所)が主家の浪岡御所・北畠具運を新年挨拶時に斬殺。北畠顕範との所領争いが背景とされる。具信は顕範によって討ち取られる。
以降、北畠顕範は浪岡御所の遺児・三郎兵衛(顕村)を輔育する。
1571(元亀2)大浦城主・南部為信が津軽郡代で石川大仏ヶ鼻城主・南部高信を襲撃し自害に追い込む。
1574(天正2)津軽郡代の補佐役であった大光寺城主・南部左衛門尉を攻略。
1578(天正6)7月大浦城主・南部為信が北畠顕則が外ヶ浜に赴いている間隙を突いて浪岡を急襲。北畠顕村は南部為信に捕らえられて西根検校寺にて自刃。顕則は辛うじて、北畠顕村の妻(秋田檜山城主安東愛季の娘)と子供を救出し野辺地へと落ちる。



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Last-modified: 2010-05-29 (土) 22:07:41 (4375d)