北畠顕家 | 1334 建武元 | 義良親王(後村上天皇)を奉じて、陸奥多賀城に下向。 |
1335
| 鎮守府将軍に任ぜられる。 |
1338 延元3/建武5 | 奥州軍を率いて美濃国青野原の戦いにて足利軍に勝利。しかし、奥州軍の疲労激しく伊勢に後退。和泉国堺浦石津にて石津の戦いを足利方の高師直と戦うも敗死。 なお、顕家は戦国時代の武田信玄よりも早く「風林火山」の軍旗を用いたことが知られている。 |
北畠顕成 | 正中年間/応永年間 | 顕家の死後、一時、顕家の弟・伊勢国司顕能を頼る。しかし、母である行岡(浪岡)右兵衛太夫秀種の娘の実家を頼り陸奥へ。当初、南朝方であった南部家の庇護を受けるが、北朝と講和した南部家から安東貞季の庇護下に入り稗貫郡船越に本拠を構える(浪岡御所)。 顕家の弟顕信の子・守親も浪岡に本拠を構えた(河原御所)。 |
北畠顕元 |
北畠具永 | -1555 | 山科言継と誼を通じ、従四位下左近衛中将に任官。 |
北畠顕義 | 15世紀後半 | 浪岡城を築城し、本拠地を東山根館から移す。 |
北畠具運 | 1562 永禄5年 | 『川原御所の乱』 川原御所の北畠具信が浪岡御所北畠具運を討ち取る。ここに、大光寺家・大浦家・北畠家による津軽三分の均衡が綻び始める。 |
北畠顕村 | 1578 天正6年 | 父・具運の死後、叔父顕範とその子顕忠により擁立される。自立を目指し、秋田檜山城主安東愛季の娘を正室に迎える。 大浦為信の攻撃により浪岡城落城。西根検校寺に幽閉され自刃。天正18年説もあり。 |