| 将軍 | 生没年 | 出自 |
初代 | 徳川家康 | 1543年1月31日(天文11年12月26日)-1616年5月22日(元和2年4月17日) | 岡崎城主・松平広忠の子。 |
2代 | 徳川秀忠 | 1579年5月2日(天正7年4月7日)-1632年3月4日(寛永9年1月24日) | 母は九州の名門菊池氏の流れを汲む三河西郷忠勝(今川家臣)の外孫の西郷局。 長兄・信康は織田信長の命によって切腹。庶兄の秀康は豊臣秀吉の養子となった後に関東の名門・結城家を継いだために徳川家の家督を承継。 織田信雄の娘・小姫(春昌院)と結婚するも破談。後に、浅井長政と織田信長の妹・市との子・江与と結婚。 |
3代 | 徳川家光 | 1604年8月12日(慶長9年7月17日)-1651年6月8日(慶安4年4月20日) 在任:1623-1651 | 徳川秀忠の子。 |
4代 | 徳川家綱 | 1641年9月7日(寛永18年8月3日)-1680年6月4日(延宝8年5月8日) 在任:1651-1680 | 第3代将軍・徳川家光と側室のお楽の方(増山氏)の子。 |
5代 | 徳川綱吉 | 1646年2月23日(正保3年1月8日)-1709年2月19日(宝永6年1月10日) 在任:1680-1709 | 第4代江戸幕府将軍・徳川家綱の弟。当初、上野国館林藩主として館林宰相と呼ばれる。兄に嗣子が無かったために宗家に復帰し将軍位を承継。大老・酒井忠清を廃し、堀田正俊を大老に据える。勘定吟味役を設置し荻原重秀を登用。文治政治を展開した。堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺されると、側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用。 生類憐みの令で知られるが、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳州・山鹿素行らが世に出る契機を作った。 |
6代 | 徳川家宣 | 1709年6月8日(宝永6年5月1日)-1712年11月12日(正徳2年10月14日) 在任:1709-1712 | 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。 第4代将軍・徳川家綱の後継に目されるが、堀田正俊が上野館林藩主・徳川綱吉が将軍位に就任。第5代将軍・徳川綱吉の後継として綱吉娘婿の紀州藩第3代藩主・徳川綱教とともに再び浮上。徳川綱教が亡くなったために宗家に入った。柳沢吉保を免職し、間部詮房・新井白石を登用。萩原重秀に命じて財政改革を推進。 |
7代 | 徳川家継 | 1709年8月8日(宝永6年7月3日)-1716年6月19日(正徳6年4月30日) 在任:1713-1716 | 第6代将軍・徳川家宣の4男。母は側室の浅草唯念寺住職の娘・月光院(お喜代)。幼名を世良田鍋松。8歳にて死去。ここに第2代将軍・徳川秀忠の系統は断絶した。 |
8代 | 徳川吉宗 | 1684年11月17日(貞享元年10月21日)-1751年7月12日(寛延4年6月20日) 在任:1716-1745 | 紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男。越前国葛野藩主を経て紀州藩第5代藩主。第7代将軍・徳川家継の死去によって、第6代将軍・徳川家宣の正室・天英院の指名により宗家を承継。 享保の改革を実行。 |
9代 | 徳川家重 | 1712年1月28日(正徳元年12月21日)-1761年7月13日(宝暦11年6月12日) 在任:1745-1760 | 第8代将軍・徳川吉宗が紀州藩主時代に長男として出生。1745(延享2)年に父・徳川吉宗の隠居に伴い将軍職に就く。田沼意次や大岡忠光を登用。弟に、田安徳川家初代・徳川宗武、一橋徳川家初代・徳川宗尹がいる。また、次男・徳川重好は清水徳川家を立て、田安・一橋・清水で御三卿を形成した。 |
10代 | 徳川家治 | 1737年6月20日(元文2年5月22日)-1768年9月17日(天明6年8月25日) 在任:1760-1786 | 父は第9代将軍・徳川家重。母は梅渓通条の娘で側室・お幸の方(至心院)。 世子・徳川家基が急死。1781(天明元)年に一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代(第11代将軍・徳川家斉)を養子とする。 |
11代 | 徳川家斉 | 1773年11月18日(安永2年10月5日)-1841年2月27日(天保12年閏1月7日) 在任:1787-1837 | 一橋家の第2代当主・徳川治済の長男。母は側室・於富(慈徳院)。正室は島津重豪の娘・近衛寔子。 田沼意次を罷免し、御三家の推挙を入れて陸奥白河藩主・松平定信を老中首座に任命し寛政の改革を実施。引き締め政策に批判が出ると松平定信を罷免。 1837(天保8)年に隠居し次男・徳川家慶に将軍職を譲った後も大御所として幕政を握った。 |
12代 | 徳川家慶 | 1793年6月23日(寛政5年5月14日)-1853年7月27日(嘉永6年6月22日) 在任:1837-1853 | 徳川家斉の次男。母は押田氏の娘で側室・楽(香琳院)。 長兄・竹千代が早世のため、父・徳川家斉の隠居に伴って将軍職を承継。父の死後、老中首座・水野忠邦を重用し、父・家斉派を粛清。天保の改革を実子。蛮社の獄で高野長英や渡辺崋山を弾圧。 水戸藩主・徳川斉昭を隠居させ、斉昭の子で後に江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜となる七郎麿は家慶の命によって一橋家を相続させられた。将軍後継に目していたという。 黒船来航による騒動の中で死去。 |
13代 | 徳川家定 | 1824年5月6日(文政7年4月8日)-1858年8月14日(安政5年7月6日) 在任:1853-1858 | 第12代将軍・徳川家慶の四男。母は幕臣・跡部正賢の娘・本寿院(美津)。 老中・阿部正弘と老中・堀田正睦が政治を主導。 鷹司政煕の娘・任子(天親院有君)、続いて、一条忠良の娘・秀子(澄心院寿明君)を正室とする。その後、島津斉彬の養女・篤姫(天璋院)を正室とした。後継者について、一橋慶喜を推す島津斉彬や徳川斉昭らの一橋派と紀州藩主の徳川慶福(徳川家茂)を推す南紀派が対立した。 |
14代 | 徳川家茂 | 1846年7月17日(弘化3年閏5月24日)-1866年8月29日(慶応2年7月20日)
| 江戸幕府11代将軍徳川家斉の7男で、清水徳川家を経て紀州徳川家の当主となった徳川斉順の長男。父・徳川斉順は第12代将軍徳川家慶の実弟であり、第13代将軍家定の従兄弟。徳川家茂は当初、徳川慶福として紀州藩第13代藩主であった。第13代将軍家定に子が無かったために、大老・井伊直弼ら南紀派の支持によって宗家に入る。 正室は仁孝天皇の第8皇女・和宮。 1866(慶応2)年に第2次長州征伐の途上で大坂城にて病没。 、田安家の徳川亀之助を次期徳川宗家の当主にと遺言していた。 |
15代 | 徳川慶喜 | 1837年10月28日(天保8年9月29日)-1913(大正2)年11月22日 在任:1867-1868 | 水戸第9代藩主・徳川斉昭の七男。幕命によって、1847(弘化4)年8月1日に一橋家を承継。勅許を得ずに日米修好条約を調印した大老・井伊直弼に抗議して不時登城した事で隠居謹慎処分を受ける(安政の大獄)。桜田門外の変における大老・井伊直弼が暗殺されると、許されて将軍後見職に就任。第14代将軍・徳川家茂が長州征伐の最中に大阪城で死去すると推挙を受けて将軍職を承継。 1867(慶応3)年10月14日に武力倒幕を目指す薩長の先手を打って大政奉還を行う。 |