木造家

http://www.digistats.net/image/u013icn.gif 「木造家というと伊勢の名門北畠家の一門でありながら、かなり微妙な立ち位置を保った歴史を持っていることで知られている。」

http://www.digistats.net/image/u014icn.gif 「戦国時代には、大抵の地方で総領の立場にある家に対して分家の家々が独自の動きをするということが顕著でしょ。 戦国時代以前からそういう動きはあった訳だけど。 例えば、鎌倉幕府を倒した立役者である新田義貞なんかは新田家の宗家の総領にも関わらず、新田一門の団結力の無さに嘆いたりしているし」

http://www.digistats.net/image/u013icn.gif 「木造家というのは、北畠顕能の二男の俊通に始まっている。その弟の俊康が継いだんだけど、この俊康は室町幕府将軍の足利義満、天皇になろうとした将軍として知られている将軍だけど、その義満の烏帽子子になって将軍家に直接仕えるようになっている」

http://www.digistats.net/image/u014icn.gif 「北畠家って北朝方の名門でもあったのわよね。 室町将軍の足利家よりも家格が上という意識を内心持っていても良いところなのに、その一門である木造家はのっけから将軍家と深く関係することになったわけね」

http://www.digistats.net/image/u013icn.gif 「そういうこと。 伊勢から将軍のいる京都に屋敷を移して、京都油小路に住んで、油小路殿と呼ばれるようになっている。 しかも、木造家は北畠家の分家だから公式な場所では北畠とは呼ばれないのだけれど、木造家の場合は別格で北畠殿とも呼ばれている。 わざわざ、そう呼ばれるということは、伊勢にいる国司の北畠家ではなく、京都で将軍のそばにいる木造家のほうが本家であると認めたようなもの。とも言えなくもない」

http://www.digistats.net/image/u014icn.gif 「微妙な立ち位置と言ったのは、そのことね。 本来は分家なのだけど、将軍から本家のような扱いを受けた。 相手が将軍だからね。それは末代までの誇りになるでしょうね。 それに、本当の本家に対しては、本家争いのようなことも起きそう。」

http://www.digistats.net/image/u013icn.gif 「北畠満雅が良泰親王を奉じて室町幕府に対して叛旗を翻した時などは本当の本家になる絶好の機会となる。当然、将軍の側に与した木造俊康は土岐持益とともに、奪われた木造城を奪回している。」

http://www.digistats.net/image/u014icn.gif 「奪回したってことは、この時は、本家の北畠満雅のほうが目障りな分家の木造家の城を攻め取っていたということ?」

http://www.digistats.net/image/u013icn.gif 「そういうこと。 木造城は木造俊康の義理の弟の雅俊が城主を勤めていた。 それを取り戻したわけ。 どっちが勝ったとも負けたとも言いがたい状況ではある。 実際、北畠家と木造家は絶縁状態が続いたわけではなく、ある時は手を組み、ある時は対立しという状態になっていく。 但し、木造家が北畠家の家臣としての扱いを対外的に受けたかというと、そうではなく、朝廷からの叙任で言えば同格という扱いを受けている。」

http://www.digistats.net/image/u014icn.gif 「北畠家としては、味方をしてくれると非常に心強いのだけれど、目の上のタンコブでもあり続けると。 そんな感じね。」

http://www.digistats.net/image/u013icn.gif 「少なくとも、大規模に公然と叛旗を翻して両家が衝突するということは無かった。 それが起こってしまったのが織田信長による伊勢攻略の開始。 引いてはならない引き金を引いたとも言える。 足利義満以降の室町幕府の将軍の軍事力というのは限界があったけれど、織田信長の場合は将軍とは違って自前の軍事力でもって伊勢を切り取るという意思で攻めてくる。 こうなると、国司大名として長らく伊勢に君臨してきた北畠家自体が敗れて消え去ってしまう可能性が非常に高い。 まさに危急存亡の時。こういう時こそ、一門の間の団結が必要になるはず。 しかし、木造家の立場は逆だった。 北畠家にとって、悪いことに、北畠家の馬揃え祭の際に、馬の順番が田丸・河内・坂内家の後にしてしまっていた。これは、北畠家と同格であるという意識を持つ木造家にとっては屈辱以外の何物でもない。 遂には、織田信長の先兵となっていた滝川雄利と柘植三郎左衛門の説得に応じて織田家に与し、本家の北畠家に対して最後の大弓を引くことになる。」

http://www.digistats.net/image/u014icn.gif 「織田家の侵攻と切り崩しを受けた伊勢の国司大名北畠家は、北畠具房の養子に織田信長の子信雄を迎えるということで和睦する、と。 和睦とは言っても、その後、滅ぼされてしまうのだから、悲しい末路。」

http://www.digistats.net/image/u013icn.gif 「北畠家はね。 織田家に与した木造具政は織田信雄に仕え、子の木造長正は徳川家康と豊臣秀吉との戦いにおいても、秀吉方の蒲生氏郷と干戈を交えるなど大活躍をしている。 ただ、織田信雄を見限って、豊臣秀吉に仕え、豊臣秀吉が擁立した信長の孫の織田秀信に仕えるという戦国時代の綱渡りも演じている。 そのお陰で、美濃で2万5千石を領したが、後付で考えると、豊臣秀吉よりも徳川家康に仕えていたほうが良かっただろう。 木造長正も、そう感じていたらしく、関が原の戦いでは主君の織田秀信に東軍に付くことを強く勧めている。 ところが、豊臣秀吉によって擁立されたということに恩義を覚えていた織田秀信にとっては東軍に付くということは始めから選択肢には無かった。 結局、敗軍の将となり、東軍で広島城主となった福島正則の誘いを受けて家臣となる末路となっている。」

http://www.digistats.net/image/u014icn.gif 「福島家は後々改易になってしまうしね。」

http://www.digistats.net/image/u013icn.gif 「一応、木造具次の子俊宣は名門の出ということで徳川秀忠の旗本として取り立てられて旗本家として木造家は存続はしたんだけどね。」

系譜

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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:10:02 (5173d)