神奈川県

居神神社

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小田原城下にある三浦荒次郎を祀る神社。三浦荒次郎は三浦半島新井城主にして名門三浦氏の最後の当主・三浦義意(1496-1516)のこと。

第2代古河公方・足利政氏(1462-1531)、扇谷上杉朝良(1473?-1518)とともに北条氏と争った。扇谷上杉朝良の養父は家宰・太田道潅を上意討ちにした扇谷上杉定正。扇谷上杉朝良は関東管領・山内上杉顕定を倒すために、駿河守護・今川氏親に支援を要請。

これに応えて、今川氏親が派遣したのが、当時、今川家の重臣で伊豆を平定していた伊勢宗瑞。後の世で北条早雲と呼ばれる人物。

三浦義意の父親の三浦義同(?-1516)は扇谷上杉定正の兄・上杉高救。新井城主・三浦時高に子が無かったために三浦義同は養子に入る。

しかし、三浦時高に高教が生まれたために、三浦義同は三浦家当主の座を時高・高教父子と争うようになる。これには、上杉高救と扇谷上杉定正との対立が背後にあったとされる。結局、三浦義同が時高・高教父子を討ち取り家督を相続するが、これによって扇谷上杉定正と対立するようになる。

それが、扇谷上杉定正が亡くなると、扇谷上杉朝良と和睦。

しかし、北条早雲が同盟の名のもとに扇谷上杉家の本拠地である相模を侵食し、かつ、宿敵だった関東管領・山内上杉顕正が越後で守護代長尾為景に討ち取られると、山内上杉家を継いだ山内上杉憲房と手を結び北条早雲と対峙するようになる。

そして、戦場となった相模国で壮絶な戦いを続けたのが扇谷上杉方であった三浦氏。

1512(永正9)年、北条早雲は三浦半島に進撃し、三浦義同を岡崎城に攻め、住吉城、新井城へと追いやった。

そして、1516(永正13)年7月11日、遂には、三浦義同・義意父子は新井城で自刃した。北条早雲は首を三浦半島から小田原に持ち帰り、井神の森にて晒し首にしたという。その首は目を見開いたままであったいう。

三浦義同・義意父子を供養し成仏させたのが久野総世寺4世忠室存孝和尚であり、父子は和尚に守り神になることを誓ったという。父子の守った新井城の城兵の血で赤く血油に染まった場所が三浦半島の油壺であり、晒し首にされた地が、ここ、小田原の居神神社なのである。

参考



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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:06:35 (3940d)