奥州戦国大名家

安東氏

安東氏は安倍貞任の子・高星を祖と伝え、十三湊を本拠とした津軽の名門。

鎌倉時代には北条得宗家の御内人である蝦夷沙汰代官職として蝦夷を支配した。

しかし、鎌倉時代末期には、藤崎城主の上国家と、十三湊に拠る下国家に分かれた。

また、1326(正中2)年には蝦夷管領職を巡って、安東又太郎季長と従兄弟の安東五郎三郎季久との間に争いが起った。これに対して、得宗・北条高時が蝦夷管領職を季長から季久に代えると争乱は幕府への反乱に発展した(蝦夷大乱)。 『保暦間記』等によれば、この背景には、、内管領の長崎高資が双方から賄賂を受け取ったことがあるとされる。 この扱いに怒り心頭に達した双方が、『諏訪大明神絵詞』によれば季長は西浜折曾関、季久は外浜内末部に城を構えて対峙したという。

翌1326(嘉暦元)年には幕府が御内侍所工藤祐貞を派遣し安東季長は捕縛された。これに対して、季長方が再び蜂起したため、幕府は宇都宮高貞、小田高知を派遣。

二度にわたる鎌倉幕府による討伐を受けて、1328(嘉暦3)年に双方は和睦した。

下国安東家は室町時代には「奥州十三湊日ノ本将軍」と呼ばれるほどになる。

秋田実季は父の死によってわずか12歳で家督を相続。 これに対して、戸沢氏や小野寺氏と結んだ従兄弟の安東通季が反乱(湊合戦)したため激しい戦いを展開し鎮圧。 豊臣秀吉によって惣無事令違反とされるも、結局は、秋田5万2千石を安堵された。

しかし、その後も、小野寺義道や南部信直との戦いを余儀なくされる。

1602(慶長7)年に、徳川家康によって常陸の宍戸へと転封。関が原の戦い時の不手際の責任とされる。これには、かつて太閤蔵入地という名目で実質的な支配を許されていた旧領を徳川家康が没収したことへの不満のせいともいう。

その後、大阪夏の陣で豊臣秀吉古参の臣で黄母衣七騎衆の毛利勝永に敗れるなどしたことから蟄居処分となる。

しかし、実季の妻が織田信長の姪であり、江戸幕府将軍・徳川秀忠の妻崇源院の従姉妹にも当たることから許され、陸奥三春5万5千石に封じられた。

系譜

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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:25:10 (5173d)