宇喜多家

宇喜多宗家は京都の藤原氏北家閑院流の三条信宗(宇喜多五郎右衛門入道寳昌か)の子で、備前の豪族三宅氏の後裔である児島高家の娘の婿となったという。児島家というのは、南北朝時代の後醍醐天皇の忠臣である児島高徳の血を受け継ぐ家。 児島高徳に関しては太平記以外に詳しい記述がなく、その記述の中ですら、吉野の後村上天皇のもとに仕えて後の消息が甚だ心もとない。

これが児島高徳なる人物の存在が怪しげであると考えられる所以ともなっている。 そういうことはどうであれ、宇喜多宗家という人物が赤松政則(1455-1496)の命によって1470(文明2)年に西大寺に地所を寄進したということが文書として残っている(西大寺文書)。

宗家は難波豊前にて討死し、子の久家が宇喜多家の家督を相続する。

この頃、宇喜多家の仕える赤松家は大きく揺れていた。

そもそも、赤松家は播磨国、備前国、美作国守護であった赤松満祐が、1441(嘉吉元)年の嘉吉の乱で将軍足利義教を暗殺したことにより所領を没収されていた。その赤松家の復興を成し遂げたのが赤松政則(1455-1496)であり、その第一の功労者が浦上則宗(1429-1502)という人物であった。

赤松政則は所領回復のために山名宗全の子の山名政豊(1441-1499)と挙げしく争った。 流れに変化が生じたのは1483(文明15)年のことである。この年、赤松家被官の金川城主松田元成が山名家に通じて赤松家に叛旗を翻す(福岡合戦)。赤松政則は真弓峠での戦(1483)で山名政豊に敗れ播磨を席巻。事態を重く見た浦上則宗(1429-1502)は、急遽、京都から帰国(1484)。播磨国人衆は自らの所領が危うくなるという事態に浦上則宗を盟主と仰ぐに至るのである。事此処にいたって、蚊帳の外に置かれた赤松政則は和泉・堺へと落ち延びた。

浦上則宗は小寺則職と謀って赤松政則を廃して、有馬則秀の子・慶寿丸に家督を承継させ、播磨奪還を目指した。

こうした中で、宇喜多家は久家の子・能家(-1534)が守護代浦上則宗・宗助・村宗三代に仕えた。

1499(明応8)年には浦上則宗と浦上村国との間で争いが生じ則宗は白旗城に篭城。宇喜多能家は劣勢を挽回し、浦上村国に兵を引き上げさせている。但し、その間も、備前では松田対浦上の戦いは続いていた。

1502(文亀2)年には宇喜多能家は浦上軍を率いて宍甘村にて松田軍と干戈を交え有松右京進を討ち取った。更に、旭川の牧石の河原にて松田元勝と激突し、松田軍を敗走させるという戦功を挙げた。

当初、赤松政則の養子で浦上家らに擁立されていた赤松義村(-1521;七条政資の子)は自立を図り、浦上村宗と対立。1518(永正15)年には居城の三石城に篭城。赤松義村がこれを包囲した。この時も、宇喜多能家は浦上方として戦い、逆に船坂峠の戦いにて赤松義村を敗走させた。赤松義村は1520年に小寺則職に軍を率いさせ三石城を攻めにかかるも再び宇喜多能家によって蹴散らされる。一連の戦いの中で小寺家が浦上家に付き、ここに浦上家の覇権が確立。赤松義村は幽閉の上、殺害された。

宇喜多能家の八面六臂の活躍は続く。

1523(大永3)年、浦上村国と小寺則職は赤松義村の子・政村(晴政)を擁立。鎮圧のために、播磨に出兵した浦上村宗に従って出陣。息子の宇喜多四郎を失うも最後には赤松軍を打ち破った。この辺りが宇喜多家にとっての最初のピークといったところであろうか。

1531(享禄4)年に浦上村宗が天王寺の戦いで細川晴元と三好元長に敗死すると、宇喜多能家は砥石城で隠居する。ところが、高取山城主島村盛実(1509-1559)の奇襲を受け自害。浦上家を支え、危機を何度も乗り切った人物にしては、誠にあっけない終わり方と言える。なお、砥石城主には弟の浮田国定(-1556)が就いている。一方、能家の子・興家(-1536/1540)は孫の直家とともに備後国鞆津に落ち延び備前福岡の豪商阿部善定の庇護を受けた。

浦上家は村宗の後、子の政宗が家督を相続。しかし、1551(天文20)年の尼子晴久による備前侵攻への対応を巡って、弟で天神山城主・宗景が対立。尼子晴久と同盟した浦上村宗と毛利元就と同盟した浦上宗景が干戈を交え、1560(永禄3)年には浦上政宗を備前東部から駆逐した。宇喜多直家はこの浦上宗景に仕え家名を再興する。

浦上宗景は1563(永禄6)年に兄・政宗と和睦。 当時は同盟を結び、備中衆を率いる三村家親の野心に備えるためである。三村家親は毛利元就の許しを得て備前を攻め、岡山城主・金光宗高、舟山城主・須々木豊前守を下していた。1565(永禄8)年には宇喜多直家の娘婿である後藤勝元が守る美作・三星城を攻める。もっとも、宇喜多直家が援軍を出し三星城が落城を免れている。

懲りずに再び美作に侵攻した三村家親に対して、宇喜多直家は遠藤秀清・俊通兄弟に暗殺を命じる。遠藤兄弟は軍議が開かれていた興善寺において三村家親を銃殺。

翌年、家親の子元親は石川氏・庄氏ら備中国人衆を結集して宇喜多直家と備前明禅寺で戦うが大敗北。続いて、旗色を明らかにしなかった金川城主・松田元輝・元賢を攻め滅ぼし、1570(元亀元)年には金光宗高を岡山城から追放。1573(天正元)年、居城を上道郡沼城から岡山城に移した。

一連の宇喜多直家の勢力圏拡大を嫌った主家である浦上宗景は宇喜多直家と対立するようになり、遂には、1578(天正5)年、和気郡天神山城において敗戦。ここに宇喜多直家による下克上が完成。全国統一を目指して迫り来る織田軍に対して毛利家と同盟して防衛線を張る。この頃、美作において三浦、後藤両家を滅ぼしている。

織田信長旗下の羽柴秀吉の勢い崩しがたしと判断すると、1579(天正7)年に羽柴秀吉に降り、毛利を攻める。備中高松城の水攻めの前に直家は病死。家督は秀家が相続。秀家は幼少であったことから、直家の正室で三国一の美女と謳われた秀家の母お福の方は豊臣秀吉の庇護を受ける。

宇喜多秀家は、本能寺の変の後、豊臣秀吉によって、備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の57万4千石を与えられ大大名となる。前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室にするなど豊臣家との繋がりもより深め、文禄の役の後は、戦功によって、徳川家康、前田利家と並ぶ五大老となった。

豊臣秀吉による恩顧を忘れず、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦では西軍の主力となって奮戦。敗れると、薩摩の島津家に匿われた。3年後、幕府に出頭し八丈島へと流罪となり、ここに西国の名門宇喜多家は事実上幕を降ろした。

系譜

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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:25:03 (5173d)