奥州戦国大名家

金氏

孝元天皇の末裔にして、大化の改新後の新政府の左大臣として活躍した安倍倉橋麻呂を祖とする奥州の名門。その末裔である安倍兵庫丞為雄(為勝)は、859(貞観元)年に初代気仙郡司として下向。871(貞観13)年に郡内産出の金を朝廷に献上したことにより金姓を賜ったのが始まり。

その子孫である金為時は、前九年の役では気仙郡郡司として陸奥国司源頼義に従い、奥州安倍氏を相手に戦った。しかし、金一族は他の在庁官人である藤原経清、平永衡らと同様に安倍氏と婚姻関係を結んでいた。この関係で、金一族の中でも、為時以外の為行、師道、依方らは安倍方として戦っている。

一族が分裂した争う中で、金為時は下毛野興重とともに、源頼義に釶屋、仁土呂志、宇曽利などの奥六郡背後に勢力を持つ安倍富忠の調略を進言。これに成功し、結果として、安倍頼時は安倍富忠の軍勢によって討ち取られた。

この流れ以外に、武蔵国埼玉郡の新羅人である金徳師が天平5年に金姓を賜姓されたことに起源を持つ流れがある。

気仙・磐井郡に勢力を張った今野、紺野、金野、昆といった名字も祖を同じくする。

また、1189(文治5)年12月から翌年3月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏残党である大河兼任が干戈を交えた『大河兼任の乱』の乱の時に活躍した金四郎右馬介為俊が知られている。

この為俊は、建久元年に源頼朝の命にて鎌倉に参陣。郡司に補任されている。

鎌倉時代には奥州総奉行職葛西氏の代官として一定の勢力を保った。

時弘の時代にはに葛西朝信の旗下として、気仙郡浜田の中山館を本拠としている。

宗家の尚義に嗣子がなかった為、分家の立根川原館主金野時清の長男為勝が宗家となる。

豊臣秀吉による奥州征伐によって葛西氏が改易された後、金時清は桃生郡の深谷で討死した。

系譜

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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:24:58 (5173d)