ルーツ東国諸藩

大沢家(高家)

  • 藤原道長の子・藤原頼宗から12代目の子孫・藤原基秀を祖とする遠江の名門。
  • 基秀の所領丹波大沢村を苗字の地とする。
  • 遠江守護斯波家に仕え、今川家が遠江に進出すると今川家に仕えた。
  • 桶狭間の戦い後も今川家を離れず徳川家康に抵抗する。
  • 徳川家康が井伊谷衆(近藤康用、鈴木重路、菅沼忠久父子、菅沼定盈)に命じて堀江城を攻めたことを契機として徳川家康に仕える。
  • 高家として優遇される。
  • 明治維新後、虚偽申告によって立藩。

遠江堀江藩 表高3500石

藩主官位・通称備考
初代大沢基宿 Motoie兵部大輔 左中将遠江堀江城主大沢基胤の長男、生母は木寺宮。正室は一条信達の娘。
徳川家康による堀江城落城後は家康の家臣となる。徳川家康の将軍宣下の際に二条康道と相談を行ったことが高家の実質的な始まりという。
徳川家康の従兄弟の吉良義定の子・義弥 Yoshimitsu とともに、1608(慶長13)年に高家職に当たる職位に就任。これは、基宿の母が後醍醐天皇の兄後二条天皇の子邦良親王の血を引く世襲親王家の出身のため。
2代大沢基重 Motoshige従四位下侍従 右京亮大沢基宿の長男。生母は一条氏。遠江敷知郡内1000石加重。
3代大沢基将 Motomasa兵部大輔 従四位上左少将奥高家。大沢基重の長男。
4代大沢基恒 Mototsune右京大夫 左少将奥高家。伊勢国津藩主藤堂高次の四男。天和3年(1683年)3月7日には、吉良義央・畠山義里とともに最初の高家肝入に就任。
5代大沢基隆 Mototaka但馬守西丸側高家。不行跡のため一時寄合に降格。大沢基恒養子。
6代大沢基朝 Mototomo丹波守奥高家。大沢基隆の子。一時、寄合となるも高家復帰。
7代大沢定寧 Sadayasu相模守奥高家。大沢基朝の次男。
8代大沢基之 Motoyuki右京大夫奥高家 高家肝煎。大沢基隆の子・近藤英用の六男。
9代大沢基昭 Motoaki右京大夫奥高家。大沢基之の子。
10代大沢基暢 Motonobu右京大夫奥高家。大沢基昭の子
11代大沢基寿 Motosumi右京大夫奥高家。徳川慶喜による大政奉還の上奏文を朝廷に提出。新政府の石高を水増しして申告し立藩。しかし、水増しが発覚し士族に降格。


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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:24:46 (5172d)