南関東戦国大名家

埼玉の名門

阿佐美氏

武蔵七党の一つ児玉党の一族。 庄 弘高の弟・庄五郎広方が児玉の浅見を本拠として阿佐美と称したのが始まり。

阿佐美弘高の子・実高の代に隆盛を極め児玉庄をも領した他、上野・越後・加賀にまで所領を得るに至った。

足立氏

藤原北家の藤原魚名の末裔で、鳥羽院の北面武士を務めた遠兼が武蔵国足立郡に本拠を構えたのが始まり。

藤原遠兼の子・遠元は、平治の乱において源義朝の陣に従い、源義平率いる十七騎の一人として知られている。

伊豆に配流されていた源頼朝とも連絡を取り合い、その挙兵時、下総国から武蔵国に入る際に葛西氏らと共に源頼朝を迎えた。

遠元の孫・遠政は丹波国氷上郡佐治郷の地頭職を得ている他、その子孫は現在の大宮の植竹郷、現在の桶川の河田郷などの地頭職を14世紀末まで有した。

  • 金澤正大 「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義」『政治経済史学』第156、157号 1979年5月、6月

猪俣氏

大井氏

武蔵七党の一つ村山党に属する。

村山頼任の子・頼家の子の家綱が武蔵国入間郡大井町に居を構えて大井五郎大夫と称したのが始まり。

大串氏

武蔵七党の一つ横山党の由木保経の子・孝保が武蔵国比企郡吉見の大串に本拠を構えたことを起源とする。

由木孝保は大串五郎重親と名乗り大串山台に城館を営んだ。重親は木曽義仲追討軍に加わった他、畠山重忠に属して源頼朝による奥州征伐にも加わり、和田義盛の矢で射られた奥州藤原氏3代当主藤原秀衡の長男の藤原国衡(西木戸殿)を討ち取る戦功を挙げた。

大蔵氏

武蔵七党野与党に属する。野与党は平良文の後裔である千葉基永が野与の荘司となって野与氏を称したもの。

基永の子・経長は武蔵国比企郡大蔵に居館を構え大蔵九郎大夫と称したのを始まりとする。



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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:24:26 (5172d)