中部地方南部戦国大名家

八条上杉/加々爪氏

1321(元享元)年、上杉重顕の子として産まれた上杉朝定は足利尊氏・直義兄弟に仕え丹後守護職を務めた他、高師直とともに足利家の執事として栄華を極めていた。

しかし、政務を担う足利直義と軍務を担う高師直が対立し観応の擾乱に発展すると、上杉朝定は足利直義に与した。

結局、足利直義は高師直を討ち取るも、近江の佐々木道誉や播磨の赤松則祐と組んだ足利尊氏によって弟・直義は京を追われた。そして、鎌倉に逃れた直義は遂には兄・尊氏の軍勢によって捕らえられ殺害された。同じ1352(正平7年/観応3)年、信濃において上杉朝定も没した。死因は病没とも戦死とも言われている。

惣領家である朝定が亡くなったこと、さらに敗軍である直義方に与していたことから、上杉家は没落を余儀なくされた。

しかし、朝定の子・朝顕は丹波国八田・漢部郷の本領を回復し京都の八条に住み室町幕府に仕えた。上杉氏というと関東管領を家職とした山内上杉家や相模守護を家職とした扇谷上杉氏を思い浮かべるが、惣領家は八条上杉家であった(『蔗軒日録』)。

朝顕は越後国鵜河庄をも領した。朝顕の子・満朝は騎馬の八条流を祖とされる。満朝の子・満朝の代になると、丹波国八田・漢部郷は関東の山内上杉家の家領となり、惣領家の八条上杉家は越後鵜河庄のみを領するようになる。

文明年間(1469-1487)、八条上杉定宗は応仁の乱(1467-1477)による京の混乱を避け、同族の越後守護上杉房能を頼って越後に下向したという(『北越軍談』)。

1513(永正10)年、越後守護代長尾為景と越後守護上条上杉定実が争った際に、八条上杉定宗は討死したという。

その後、八条上杉家は上条上杉家に属将となっていく。

一方、八条上杉定宗の兄弟である八条上杉政正は駿河へと下向し、駿河守護今川範政に仕えた。

系譜

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参考

  • 谷合伸介 「八条上杉氏・四条上杉氏の基礎的研究」 『新潟史学』第51号、2004年。
  • 森田真一 「越後守護家・八条家と白河荘」 『笹神村史 通史編』中世第四章第一節、笹神村、2004年。


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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:23:27 (3931d)