岩手県>平泉 中尊寺 †奥州藤原氏の祖・藤原清衡によって創建された天台宗東北大本山の寺院。 藤原清衡の父・亘理(藤原)経清は前九年の役で源氏の嫡流・源頼義に反旗を翻し、。陸奥国奥六郡を治めた俘囚長・安倍頼時に与し処刑された。 清衡も嫡男として処刑されるべきところ、母親が源頼義に味方した清原武則の長男・清原武貞に再嫁することとなったために助命される。 その後、清原氏に内紛が起こり、清原清衡は妻を含む一家を皆殺しにされる。これに対して、源頼義の子・義家が清衡を保護。ここに、後三年の役が勃発し、源義家は清原一族を滅亡させる。 しかし、源義家の意図に反し、朝廷は一連の戦闘行為を私闘に過ぎないとし、源義家に陸奥を与えなかった。結局、清原清衡が陸奥を手中にし、父親の藤原姓に復して、奥州藤原氏の祖となった。 一方の源義家は郎党に対して自らの蓄えを割いて恩賞を与えたため、恩義に感じる東国武士が増え、後の鎌倉幕府を支える基礎となった。 写真の金色堂には清衡、基衡、秀衡、泰衡の藤原四代の遺骸を祀っている。 奥州藤原氏と源氏との浅からぬ因縁は1189(文治5)年に源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたことによって終止符が打たれた。この時、中尊寺は「鳥羽法皇御願」の寺とされていたために、源頼朝の庇護を得て存続することとなった。 1337(建武4)年に野火によって金堂以外は焼失。また、1573(天正元)年には平泉にて、葛西氏と大崎氏が干戈を交えるが、金堂は被害を免れた。 この経堂は1337(建武4)年の火災で焼失した後に再建したものという。再建前の経堂は『供養願文』によれば二階瓦葺だったという。
|