広島県

三原城址

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駅が城郭内にある、いや、城址が駅の中にあるというべきか迷うほど。

三原城は瀬戸内に注ぐ沼田川の中州に小早川隆景(1533-1597)が築城したもの。小早川隆景は1541(天文10)年に安芸武田氏の佐東銀山城攻撃の最中に病死した竹原小早川興景の後嗣として毛利家から入った人物。毛利元就の三男だ。

この養子縁組は周防・長門守護・大内義隆(1507-1551)の強い勧めによるものだったという。この時に小早川隆景が入城したのは竹原小早川氏の本拠地・木村城。

その後、小早川隆景は竹原小早川家の本家に当たる沼田小早川家の小早川又鶴丸(繁平)の嗣子として沼田小早川家の当主となり、両小早川家を統一した。竹原小早川家を承継した際は竹原小早川家臣団一丸となっての懇請があったという。

しかし、沼田小早川家の場合は違っていた。大内軍に従軍して討死した沼田小早川正平の跡を継いだのは盲目の又鶴丸(繁平)。

又鶴丸(繁平)は大内家の西条代官により出雲守護・尼子家に内通した嫌疑を掛けられ高山城から移される。

加えて、家臣の乃美隆興が繁平の妹・問田の大方を竹原小早川隆景に娶わせる計画を推進し、これに毛利元就が乗る形で1551(天文20)年に家督を承継した。

この際、反対派の田坂全慶は誅殺された。但し、又鶴丸(繁平)は毛利家庇護のもとで教真寺で余生を送っている。

さて、小早川隆景は沼田小早川家の本拠地・高山城に入った後、新高山城を築城して移り、更に、1596(慶長元)年に三原城を築城し移った。

関が原以降は広島城に入った福島正則が支城として改修。福島家が改易された後は浅野家の城となった。

鞆の浦から竹原に向かう時、竹原から瀬戸内沿いをバスで東行した際、そして東京に戻る時の三度もここに立ち寄った。

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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:13:29 (5178d)