1181年10月10日癸丑天晴

[玉葉]或る人云く、越前・加賀等の武士、切り塞ぐ所の路を開く。国内無人と。若くは官兵を引き入るべきの謀か。還って怖れ有るの由、人々云いせしむか。明日官軍の下向延引す。来十三日と。先日定めらる所の手々相違し、知盛卿下向せずと。北陸道、知度・清房(以上故禅門子息等なり)。この外、重衡卿・資盛朝臣等、野宇美越ニ同じく北陸に向かうべしと。維盛・清経等の朝臣、海道・山道を兼ねるべし。頼盛卿息二人、熊野方を襲うべし。前の幕下・教盛・頼盛・経盛等、洛中を護るべし。已上の勢、相並び五六千騎に過ぎず。而るに手々に相分ち、各々行き向かわば、京中の武士僅かに四五百人か。頗る恐る所無きに非ずと。

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