周王朝

B.C.1046:周王朝成立 周の発(武王)が呂尚(祖父により取り立てられた太公望)の輔佐のもとで、諸侯を糾合し2度目の東征を実施。殷の紂王の軍70万を破る。殷軍は周連合軍5万余よりも多かったが兵士の多くは武器を逆さにして戦闘に臨み周に下ることを願ったという(『史記』「周本紀」)。紂王は焼身自殺を図り、ここに殷王朝は幕を下ろした。
戦功によって、太公望は現在の山東省にある営丘に封じられ斉の国を治めることになり、武王の弟の周公旦は曲阜に封じられ魯の国を治めた。それ以外にも古代の神農、黄皇、尭、舜の子孫や夏王朝の探し、舜の子孫を陳に、夏王朝の子孫を杞に封じた。さらに、驚いたことに自分が滅ぼした殷の紂王の子の禄父(武庚)にすら旧領の一部を安堵している。禄父に対しては備えとして武王の弟の叔鮮、叔度と霍叔を三監という監視役に任命して旧殷軍勢力に対する備えとしたという。この措置は、現代でいうととても人道的なものに思える。しかし、周の武王が現代流の人道的な思想の持ち主であったという訳ではなく、殷の祖先を祀るものがいなくなることによる祟りを恐れてのこと。

B.C.1052頃:三監の乱 武王が亡くなり成王(BC1042-BC1021)が周の王位を承継すると、殷の紂王の子の禄父が監視役の三監を巻き込んで叛乱。
成王は召公とともに武力討伐を行う。3年の歳月を掛けて禄父を殺害。代わりに同じく紂王の子の微子開を宋に封じ殷の故地から切り離した。

B.C.841:共和元年 脂、(B.C.857年-842)は衰退した周王朝の威光を取り戻すべく改革を実施。しかし、国内に不平不満が高まる。不満を収めるべく、脂、は衛国の巫女を秘密警察として国内に派遣し不満分子の摘発を行った。栄夷公が輔佐を務めたという。人心を無視した政治に対して、周公と召公が諫言を行うが却って退けられる。そして、『史記』に「三年にして乃ち相与に畔き、脂、を襲う。脂、、に出奔す」と記される大反乱が起こる。
脂、出奔後は周公と召公が共に和して政治を行ったので共和とも、『竹書紀年』に「共伯和、王位を干す」とあるように共の伯爵である和が執政したために共和と呼ばれたとも言われる共和政の時代になる。いづれにせよ、『荘子』には脂、の死とともに脂、の子の宣王(BC828-782)に大政が奉還された。
そして、「宣王位に即き、二相(周公定、召公穆)之を輔けて政を修め、文・武・成・康の遺風に法る。諸侯復た周を宗とす」という宣王中興の時代になった。但し、宣王自身は暗愚だったと言われている。

B.C.771:西周滅亡 幽王(BC781-771)は寵愛する褒が伯服を産むと正室の申氏が産んだ宜臼太子を廃した。これに対して、申侯は犬戎らの部族と謀って周を攻めた。何とこの時、幽王の招集に応じた兵は少なかったという。幽王は褒を喜ばすために軍事用の狼煙を上げては楽しんでいたことが仇になったのだ。犬戎軍によって幽王、伯服太子は殺害され、褒は捕虜とされ宮殿は悉く破壊された。この翌年に、申侯に匿われていた宜臼廃太子は副都の成周洛陽に移り平王として即位した。


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