倭寇

対馬、壱岐、松浦半島の日本人を中心として「三島倭寇」とも呼ばれ14世紀から15世紀に朝鮮半島や中国の山東半島を襲った海賊集団。朝鮮人も含まれていたとされるが主体は日本人だったと考えられる。これが、16世紀に中国の沿岸部を繰り返し襲った後期倭寇が中国人を主体としていた点と異なる。

対馬倭寇の拠点は浅芽(あそう)湾岸であり、2000年に尾崎の地から14世紀後半から15世紀にかけての倉庫の跡である水崎遺跡が発見されている。水崎遺跡からは元・宋の銭貨が55枚も見つかっている。その他にも瑪瑙を長円形に研磨した赤茶色で長径5センチの石帯も発見されている。石帯は日本では平安時代前期に見られるが、朝鮮半島では15世紀に用いられた。つまり、中世の石帯は朝鮮半島との繋がりを暗示している。この点に関して、西谷正九大教授は朝鮮から倭寇の首領だった早田(そうだ)氏に下賜されたものと推測する。当時、倭寇の度重なる攻撃によって1392年に朝鮮半島の高麗が滅亡し、李氏朝鮮が代わって立った。李氏朝鮮は高麗のような強攻策ではなく、告身という官職授与状を早田氏に付与することで倭寇の懐柔を図った。告身は尾崎の早田家に3通も伝わっている。


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