宇都宮氏

藤原氏道兼流。但し、下毛野氏、中原氏の流れを汲むとも伝えられる。藤原宗円(1043-1112)が前九年の役(1051-1062)で源頼義と義家に従った戦功によって宇都宮を与えられ宇都宮を称したことが始まりとされている。代々、宇都宮二荒山神社座主、日光山別当職を務め、武力面においても清原氏や益子の紀氏からなる紀清両党を率いて下野国を統率した。この点からすると、宗円は藤原道兼の血を引くというよりも二荒山神社の祭祀を司っていた下毛野氏の一族の末裔と考えたほうがすっきりとする。

第3代当主の宇都宮朝綱は初めは平 清盛に仕えて京都にあったが、源 頼朝が挙兵する際に参陣し宇都宮検校職に任命もされ、「坂東一の弓取り」とまで賞賛された武勇の持ち主。しかし、公田横領の罪によって土佐に配流となっている。ちなみに、二荒山神社は頂点に立つ神官層のトップとして宇都宮検校を戴き、氏家、西方、笠間、武茂、中里の庶子家が支えるという構図を持っていた。その下に僧徒層と宮仕層があったが、宮仕層は紀清両党によって構成された。丁度、諏訪一族の構成を思い起こす。朝綱とともに、孫の頼綱は豊後へ、頼綱の弟朝業は周防へ配流となったが、その後、赦免されている。

しかし、1205(元久2)年に北条時政と牧の方は、第3代将軍実朝を廃して平賀朝雅を将軍に就けようとした牧氏事件が勃発。牧の方は宇都宮頼綱の実母であったために幕府軍の追討を受けた。頼綱は出家した上で必死の弁明を行い連座は免れた。宇都宮氏が1221(承久3)年の承久の乱で頼業や時朝が幕府方として大活躍した背景には勢力の挽回という意味合いがあったと言える。結果的に宇都宮氏は評定衆に加えられるまでになった。

南北朝時代には宇都宮公綱は一貫して南朝方として戦ったが、あろうことか息子の氏綱は足利方として戦い袂を分っていた。氏綱は芳賀禅可とともに観応の擾乱では高氏方として戦い、直義方の上杉憲顕と上野・越後の守護職を争った。この対立は上杉憲顕が鎌倉公方足利基氏と上杉憲顕を招請したことで、宇都宮氏綱の上野・越後守護職が剥奪されたことで激化。岩殿山の戦いで足利基氏と芳賀軍との激突を生んだ。更に、氏綱を承継した基綱が1380(康暦2)年の裳原の戦いで小山義政に敗死。次の満綱の後は満綱に子がなかったために一族の武茂綱家の子持綱が承継した。この時代になると宇都宮氏には既にかつて上杉氏と覇を競った面影は無くなる。

鎌倉公方足利持氏が室町幕府に対して独立の意思を示し始めると、将軍足利義持は宇都宮氏、山入佐竹氏、常陸大掾氏、小栗氏、真壁氏などを京都様御扶持衆として鎌倉府ではなく京都の幕府の直轄として組織し牽制を図る。特に宇都宮持綱は上総守護職を拝命し常に鎌倉にあって鎌倉公方を監視していた。この状況を疎ましく思った鎌倉公方足利持氏は京都様御扶持衆の討伐を行う。まず、1423(応永30)年に常陸国の住人小栗孫五郎平満重が持氏の下知に従わないという理由で討伐された。この「小栗満重の乱」で宇都宮右馬頭持綱は一味ということで塩谷駿河守によって甲斐で討ち取られている。桃井下野守と佐々木近江入道もまた討ち取られている。持綱の嫡男等綱は幼少であったために宇都宮氏は逼塞を余儀なくされた。

1454(享徳3)年に鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことで勃発した「享徳の乱」では、宇都宮等綱は幕府軍として戦い那須資持によって攻め立てられ足利成氏に降伏。足利成氏は鎌倉を捨てて古河に移り、宇都宮周辺も成氏の支配するところとなった。等綱の跡は明綱が継いだが早世し、その跡は芳賀成高の子正綱が承継。小山氏が成氏方から幕府方へと転向する中で正綱も幕府方へと転じるなど波乱の生涯を戦乱に次ぐ戦乱の中で短く終えている。宇都宮氏は相変わらず劣勢に立たされて苦しい状況だった。それを変えていったのが正綱の子の成綱。当初は一族の芳賀高益の加勢を得ていた宇都宮正綱であったが、高益が独立の気配を明らかにしてくると、成綱は1512(永正9)年に宇都宮城に芳賀高勝を攻めて自刃させ、続いて芳賀一族との戦いに突入した。この宇都宮錯乱を経て成綱は宇都宮家臣団を一つに纏め上げた。

宇都宮氏内の混乱に乗じて古河公方方の佐竹氏、岩城氏、那須氏連合軍は宇都宮領を三分しようと狙う。那須氏は南北に分裂していたがいづれも佐竹氏の支配下に入っていた。1514(永正11)年に佐竹・岩城氏連合軍が宇都宮に侵攻するが、宇都宮氏側は辛うじて追い返すという有様。このままでは領内を防衛出来ないと考えた成綱は南那須氏と密かに組むという万全の備えをした上で、佐竹氏と小川縄釣の合戦の戦端を開いた。今度の戦いは前回とは異なり、宇都宮氏の大勝利に終わった。成綱の跡は忠綱が家督を承継したが、1526(大永6)年に結城政朝の支援を受けた叔父興綱と猿山の戦いを戦い敗れて壬生綱雄のもとで客死してしまう。簒奪者である興綱の運命も安泰ではなかった。丁度10年後の1536(天文5)年に壬生氏を味方に引き込んだ芳賀高経によって暗殺されるのである。

芳賀高経によって俊綱が宇都宮家の家督を承継するが、これも家内対立の始まりに過ぎなかった。わずか2年後には、主君である宇都宮俊綱は周囲の那須政資、佐竹義篤、小田政治と組み、家臣の芳賀高資は小山高朝、結城政勝と組んで互いに争った。高経は児山城に篭城するが攻め立てられて敗死。ここに俊綱は宇都宮氏の再統一に成功する。そして北関東は宇都宮氏、佐竹氏らと後北条氏を後ろ盾とした小山氏、結城氏との対立という構図が出来上がる。その中、俊綱は1549(天文18)年に古河公方足利晴氏の命によって那須七党追討を行った。これが命取りとなり大敗を喫し、俊綱自身が戦死の憂き目に会う。折角、統一された宇都宮家中であったが、家督を継いだ広綱は芳賀高定に守られてようやく当主としての地位を保つという有様にまで転落。家臣の壬生綱雄はこれを契機として叛旗を翻し後北条方に与し主筋の宇都宮氏に対抗するようになった。

宇都宮氏の家督は国綱が承継したが、宇都宮氏は佐竹氏とともに一貫して反後北条方であったために、豊臣秀吉の小田原征伐の際に河内郡・芳賀郡・塩谷郡を無事安堵され18万石の大名となっている。宇都宮国綱は石田三成と組み、浅野長政が子の長重を嗣子にという提案を拒否したことを一つの原因として歯車は急速に狂い始める。浅野長政による太閤検地で石高の申請に不正有りとされて何と改易されてしまうのである。後、宇都宮氏は水戸家の家老家として存続していく。


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