大田原氏

坂東八平氏とともに関東武士団の代表として名高い武蔵七党の中の丹党の流れを汲む一族。丹党阿保氏の一族であった康清が下野那須の大俵の金田村の水口城に居を移したのが事実上の始まり。康清の先祖の忠清の代には那須七騎の一人とされるほどにまで家名を高めていた。

関東管領上杉禅秀が1416(応永11)年に鎌倉公方足利持氏に叛旗を翻す(「上杉禅秀の乱」)と大田原家の仕える那須家は資之の上那須家と資重の下那須家に分裂。大田原氏は水口城で上那須氏を支えた。

時代は下り、第四代上那須資親の時代。上那須資親には初め子が無かったために白河の名門結城氏から資永を養子に迎えて上那須家を継がせた。しかし、資久が生まれると資親は執事の大俵胤清父子に実子の資久の家督承継を託してこの世を去った。大俵資清と父の胤清は主家の資永に叛旗を翻し資久を遺言通りに主家に迎えようとする。この動きに大関、金丸、芦野、伊王野、河田が加わり、上那須家は分裂。1514(応永11)年に資永軍と資久軍は資永方の福原城で激突。この時、資久は山田城にいたが、あろうことか資永方によって拉致される。事を知った大俵氏らは福原城を総攻撃し落城させるも主家の資久は斬殺された後であり資永も自刃した後であった。ここに上那須家は滅亡したのである。

その後、那須烏山城の下那須資房が上下那須を統一。その一方で、上那須家を滅ぼすこととなってしまった大俵資清は1518(永正15)年に福原資安、大関宗増と争って敗れ出家した後に越前朝倉氏を頼って落ち延びた。しかし、1542(天文11)年には越前朝倉氏の支援のもと、那須に復帰し大関宗増の子の増次を倒して大俵氏を大田原氏として復興。増次自刃後の大関家に高増を入れ、福原家にも資孝を養子として送り込み那須家中での地位を回復。その後、主家の那須高資とともに「五月女坂の合戦」で宇都宮尚綱を敗死させるなどの活躍をした。また、那須高資の弟の資胤に娘を嫁がせ主家との血縁関係を深めた。資清の後を継いだ綱清は高資を駆逐し那須家の家督を資胤に承継させようと試みる。結果的に資胤は高資によって追放され那須家の分裂の再現は無かったものの、高資は宇都宮広綱と千本氏の謀略によって千本城で暗殺された。

資胤は呼び戻され那須家を承継。大田原綱清は擁立側として資胤と上手くいく筈であった。しかし、1560(永禄3)年に奥州小田倉における会津葦名盛氏との戦いで予想以上の苦戦を強いられた資胤は、大関高増の責任を問うた。大関高増は大田原綱清の兄に当たる。これに猛反発した大田原氏を中心とする上那須衆は一時佐竹氏の支援を受けて内乱に及んだ。この内乱が収まると、大田原綱清、大関高増、福原資孝三兄弟は元の通り那須家で重い地位を得た。大田原氏は那須氏の家来筋でありながら那須氏よりも実力を有しているという状態はこうして長きにわたって続いた。それを決定的なものとしたのが豊臣秀吉による小田原戦役である。大田原氏は綱清の子晴清が真っ先に秀吉の下へと馳せ参じた。一方の那須氏は参陣すらしなかったため改易となり、以降、那須は実質上も名目上も大田原氏の支配下の地となった。


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