小山氏

藤原秀郷流の関東八家の一つ。小山政光の後妻の寒河尼が源頼朝の乳母だった関係から、頼朝の挙兵時にいち早く寒河尼が実子の朝光を伴って参陣。これが小山氏の歴史の表舞台への登場となる。続いて、朝光の2人の兄である朝政・宗政の兄弟も頼朝の陣に加わった。源頼朝の叔父の志太義広が平氏と手を結び頼朝に謀反を起こすと近隣の小山氏に対しても参加を呼びかけた。これに対して、小山氏側は当主の小山政光が京都にあったために兵力が少なく、志太義広の呼びかけに応じると見せかけて奇襲作戦をとる。すなわち、既に小山氏の同族である足利忠綱(藤姓足利氏)を軍勢に加え、更に、頼朝が派遣した関政平にも叛旗を翻させることに成功した志太義広は小山氏も加わるとの知らせを受けて小山朝政の館へと兵を進めた。既に周囲を固めていたので油断もあったのだろう。しかし、小山氏側は野木宮周辺に太田菅五、水代六次、次郎和田、池二郎、蔭澤次郎、小山朝光の郎従である保志泰三郎を潜ませて、一気に志太義広に襲い掛かった。登々呂木澤で激戦が繰り広げられるが小山兄弟の奮戦によって志太義広は敗れ落ち延びていった。この時、頼朝は鎌倉の鶴岡八幡宮に小山朝光を従えて籠もっていた。朝光が頼朝の言葉に応えて勝利の予言を行ったという話は2人の信頼関係の厚さを物語るものだろう。

小山3兄弟は長男朝政が小山氏を継ぎ、弟の宗政が長沼氏、朝光が結城氏を興して鎌倉幕府内で重き地位を占めた。1331(元弘元)年に後醍醐天皇が笠置山で鎌倉幕府討幕の挙兵をした際には、小山秀朝(-1335)は幕府軍として討伐に参加している。小山氏の幕府内での地位を考えれば当然のことと言える。しかし、小山氏はあくまでも源 頼朝との関係で幕府創設に貢献したのであって、北条得宗家の風下に立たされていることに満足はしていなかった。従って、足利高氏が叛旗を翻し、関東でも新田義貞が武力を糾合すると討幕軍に加わった。秀朝は1335年に第14代執権北条高時の次男北条時行による中先代の乱の際に足利直義に従って武蔵国府中で戦い戦死。小山氏は主要な家臣を失い大打撃を蒙った。また、鎌倉を揺るがしたこの戦いによって、足利高氏が後醍醐天皇陣営に叛旗を翻した。同族の結城宗広(1266-1339)は後醍醐天皇方に与し、小山氏は押される形となり、1337(建武4)年北畠顕家によって本拠地の小山城は落城する。朝郷は助命されたものの劣勢を挽回するまでには至らなかった。朝郷の跡は弟の氏政が家督を承継。氏政は観応の擾乱(1351年)では関東で優勢だった直義方ではなく高氏方として参戦している。結果として、周辺の武士団は小山氏を離れ宇都宮氏綱に従い、趨勢に従って宇都宮氏綱が下野国守護職に任じられるという事態となった。

氏政の跡を継いだ義政の代に下野国守護職を回復するが、宇都宮氏との緊張関係は継続。遂には、1380(康暦2)年宇都宮基綱に戦いを挑むに至る。鎌倉公方足利氏満の制止をも振り切り小山義政は裳原の戦いで基綱を打ち破った。事を重視した足利氏満は小山義政追討の兵を挙げ、1382(永徳2年)に櫃沢城にて義政を自刃に追い込んだ(小山義政の乱)。義政の子の隆政(若犬丸)は父親の自刃後もゲリラ戦を試みたが次第に鎮圧され自身は行方不明となる。その子も処刑されたために小山氏は断絶。小山氏と同族の結城基光の子の泰朝が名跡を承継した。


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