越後長岡藩

越後高田の徳川家康の六男松平忠輝が改易された後に、その所領の一部の長岡に信濃国飯山藩から堀直寄が8万石で入封。これが長岡藩の始まり。その後、堀直寄が同じく越後国村上藩へと転封。同じく越後国長峯藩より牧野忠成が入る。

牧野氏は源氏を名乗る場合もあるが正確には紀氏流蘇我支族の流れを汲み阿波国で平 清盛を主と仰いでいた田口民部大夫・成良父子を祖とする。成良と子の教良が源 義経方に寝返り平家滅亡の一因となった。しかし、田口一族は源 頼朝に認められず鎌倉にて命を断たれる。その子孫は成継のとき三河国宝飯郡牧野庄の地頭となって、ようやく歴史の表舞台に返り咲いた。牧野庄の地頭となったために牧野を名乗ったのである。

牧野氏は後に東三河牛久保に拠って今川義元、氏真に仕え西三河の松平氏とは対立関係にあった。しかし、1565(永禄8)年に牧野右馬允成定が酒井忠次の仲介で牧野出羽守保成に取って代わって徳川家康配下となる。成定の死後、相続争いが起るが徳川家康の介入によって康成が宗家を相続。掛川城攻め、姉川の合戦、牛窪防戦、諏訪原城攻め、高天神城攻めなどで活躍。徳川家康の関東入国後は上野国勢多郡大胡で2万石を得た。


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