清和源氏満政流

冷泉天皇の次の皇位を巡って醍醐天皇皇子である左大臣源高明は、先代の村上天皇の子で冷泉天皇の弟で、自分の娘を妃としている為平親王の擁立を目指した。一方の藤原北家の師尹の子の伊尹、兼通、兼家三兄弟は守平親王を推した。源高明は藤原師輔(坊城大臣、九条殿)の娘の賢子を妻とし藤原北家とも結んでいた。賢子が亡くなると妹の愛子が妻となった。愛子の姉の安子が958(天徳2)年に村上天皇の中宮になると源高明は村上天皇と義兄弟の地位となる。

この先は微妙になってくる。960(天徳4)年に源高明を引き立てた藤原師輔が亡くなり、964(康保元)年には皇后安子が亡くなる。続いて967(康保4)年には村上天皇自身が崩御。後には安子の産んだ憲平親王が冷泉天皇として即位したが病弱であったために誰を皇太子とするかという問題が沸き起こった。源高明は為平親王を推すが、藤原北家の藤原忠平の子で師輔の弟の師尹と師輔の子の三兄弟は源高明に猛反発。結局、藤原三兄弟の暗躍で守平親王が擁立された。

ところが、病弱で子供が出来ないと思われていた冷泉天皇に968(安和元)年に師貞親王が誕生する。後の第65代花山天皇である。師貞親王が誕生したとしても守平親王の皇太弟としての地位は揺ぎ無かったが、ここで守平親王の廃立を企んでいるという密告がなされた。安和の変である。密告をしたのは満政の兄、源満仲。左兵衛大尉源連、中務少輔橘延に謀反の疑いありと訴えたのだ。背後に藤原さん兄弟があったことは言うまでもない。すぐさま捕縛の命が下り満政も検非違使として前相模介藤原千晴、久頼父子を捕らえた。藤原千晴は清和源氏の祖である経基王とともに平将門の討伐で名を上げた藤原秀郷の子孫であり清和源氏の最大のライバル。安和の変は左大臣源高明が為平親王を東国で擁立しようと目論んだものとされた。もとより真相は明らかではない。結果として藤原北家の最大のライバルの源高明は大宰府に流され、清和源氏の最大のライバルだった秀郷流藤原氏は勢力を大幅に削がれた。

満政(914-973)は後に美濃の方県郡八島郷に下って八島大夫を称し美濃源氏諸氏の祖となった。清和源氏の嫡流との関係を見てみると、崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱(1156)では山田先生重貞が源鎮西八郎為朝を捕らえている。重貞の父の八島冠者重実は平治の乱(1159)で源 義朝に従って討ち死にしている。また、重貞の子の重満、重国は平家に従って、源 頼朝によって斬首された。重満は源 行家に従ったが墨俣川合戦で平 重衡によって討ち取られた。重満の子の重忠は朝廷付武官として1221(承久3)年の後鳥羽上皇による鎌倉幕府倒幕計画に参加し鎌倉幕府軍によって子の小島重継とともに討ち取られた。承久の乱によって美濃源氏の嫡流が滅んだことで美濃源氏は衰退を余儀なくされるが、三河国足助荘に進出していた足助賀茂重長の流れが三河源氏として満政の流れを受け継いでいった。この足助氏も朝廷を中心に活躍し、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画に足助重範が参加し六波羅探題に捕らえられ斬首されたり、重信、重氏は新田義貞の鎌倉突入に加わり北条一門最期の地で討ち死にしたことが知られている。


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