有馬氏_筑後国久留米藩

有馬氏の祖は赤松則祐の五男の義祐。義祐は播磨・備前国守護職の惣領である赤松家の重鎮であったが家内の騒動により不慮の死を遂げた。この時、嫡男の持家は助かったが所領は赤松則友によって治められた。1441(嘉吉元)年に赤松満祐が将軍の足利義教を暗殺。赤松則友が幕府軍に敗れ戦死したため所領の有馬郡を回復。ところが、赤松満政の挙兵に加わって以降は再び逼塞を余儀なくされた。筑後久留米藩主家は嫡流ではない。嫡流は澄則の子の村則。村秀、国秀と続き、国秀は室町幕府将軍足利義昭に仕えた。後に1568(永禄11)年に織田信長によって有馬郡を所領安堵されている。ところが、荒木村重と血縁関係を結んだことから、村重の謀反時に嫌疑をかけられ、1575(天正3)年に有岡城にて自刃。有馬家の嫡流は断絶した。

秀吉に仕えた有馬則頼は傍流の有馬重頼と細川澄元の娘との間に生まれた。秀吉の配下で三木城が落城後には淡河城主1万5000石の大名として取り立てられた。文禄の役の後に念願の旧領有馬郡に2万石を得て三田城に住した。則頼の家督を豊氏が承継し、関が原の戦いによって加増の上、福知山城へと移封。そして、最後には筑後久留米にて21万石を領した。


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