そして鎌倉へ

頼朝は武蔵国を目指して房総を北上、隅田川に陣を張る。対岸には平家方の秩父党諸氏の勢力圏。頼朝に従う三浦氏にとっては縁戚関係にあったとはいえ最前まで激戦を展開した間柄。そんな中、上総介平広常が大軍2万騎を率いて到着。上総介広常は

「これほどの大軍を率いてきたからには、きっと頼朝は喜ぶに違いない」

などと考えていたが意に反して頼朝は、

「遅参したことは到底許せるものではない。命令があるまで控えろ」

と伝え、この言葉に広常が感服したことは有名なエピソード。

この千葉介広常が頼朝に源氏の故地である鎌倉を本拠地とすることを勧め、更に、後には平家を追って京へと上るのではなく関東に留まって地固めをすべきことを進言する。

そもそも、鎌倉という地は常陸国に生まれた大織官鎌足が大化の改新で蘇我入鹿を討つことが出来た御礼として常陸国鹿嶋神宮へ赴く途中でお守りの鎌を夢のお告げによって埋めた由井郷大倉松岡の地を起源とする。鎌足の玄孫の染谷太郎時忠が後に鎌倉に居を定め関東追捕使を勤めた他、平 貞盛の孫の上野介直方が平 忠常の乱平定の際に館を構えた地でもある。平 直方は伊予守源 頼義を婿として鎌倉の館を与えたという。頼義と直方の娘との間に生まれたのが八幡太郎義家(1039-1106)。八幡太郎義家が奥州征伐のために下向した際(1051)に直方は鎌倉を義家に譲った。この時から鎌倉は源氏の故地になったのである。そして、関東の武士団は源氏の棟梁を自らの領袖として関東独立の夢を託していった。


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