北条光時反逆

1246(寛元4)年5月24日の鎌倉は朝からざわついていた。大きな戦いが市中で勃発するという噂が広まり、難を逃れようとする人々で路地はごった返した。騒ぎが拡大するのを防止するために、執権北条時頼の命令で渋谷一族が郎党を率いて下馬先を固めて通行を禁止。そこへ太宰少弐為佐が郎党50騎を従えて将軍の御所へと向かうために差し掛かった。渋谷側は例外なく通行を禁止する心積もりであったために少弐為佐一行を阻止。金刺五郎が大声で少弐為佐一行に対して、

「御所へ向かう者は通行を一切禁止する。しかし、執権殿の邸への通行は特別にお許し致す」

少弐為佐は憤った。鎌倉の主は実質はどうであれ将軍のはずである。少弐一族の御家人としてのご奉公は北条得宗家に対してではなく鎌倉将軍に対してのもの。

「何を血迷うたか。鎌倉殿へのご奉公を阻止せんとするならば、少弐一族の意地にかけても蹴破る所存」

一触即発の状況である。鎌倉には諸国から騒動の噂を聞きつけた御家人達が鎌倉街道を駆け抜け集まっていた。皆、いつ戦になっても良いように完全武装である。その御家人達が下馬先での渋谷一族と少弐一族との押し問答を知って、戦が始まったとばかりに押し寄せる。ここでの戦は無益と考えた少弐為佐は下馬先から御所への参上を諦めて違う道を行くことにした。

何がどうなっているのか分からない状況が続いたが確実に言えることは執権方に参上する御家人衆がどんどん増えていったということ。そんな中、昨年亡くなった北条泰時の弟の名越遠江守朝時の嫡男の名越越後守光時が前の第4代将軍頼経に実権を取り戻し、自らが得宗家に代わって執権となろうと画策していた。全ての騒ぎの原因は名越邸にあったということになる。名越邸は四方を完全武装の兵士で固め、数千の兵が周囲に満ち溢れていた。しかし、得宗邸に集まった兵の数には及ばない。鎌倉に足を踏み入れた人なら分かるが、名越と小町は目と鼻の先と言える距離。そこに1000単位で兵が集結しているというのは尋常ではない。

5月25日早朝、但馬前司定員が御所の使者として執権邸に赴いた。これに対して北条時頼は取り込み中ということで、諏訪兵衛入道と尾藤平太盛時が門前で定員を追い払った。定員が御所に帰ってくると御所にいた光時は、

「もはや、これまでか」

とひとりごちた。実は、兵を整えた光時は鎌倉中に使者を放ち一族のものに得宗家への謀反を呼びかけたが、応じるものがいなかった。弟の時章さえも加わらなかったのである。そのために、時宗との手打ちを考えていたのである。その手打ちの使者として定員が発ったのであるが、それも拒絶された。こうなっては、時宗方がいつ攻めて来るか分からない。確かに名越邸は兵で溢れかえっているが、所詮は時宗方の兵力には到底及ばない。自分ひとりでは勝ち目がないということは自分自身で良く知っていたのだ。

光時は観念すると、髻(もとどり)を切って出家し、その髻(もとどり)を反逆の意図のないことの証として執権邸に届けさせた。光時は越後の所領を没収された上で伊豆へと配流となった。執権邸で北条政村、実時、安達城介義景に加えて御内人である諏訪盛重、尾藤経氏、平 盛綱らが寄合を行い、陰謀の中心となって担がれていた前の第4代将軍頼経の追放を決め、同年7月11日に突如として鎌倉から追放された。更に、時頼は一連の騒動の黒幕は将軍家の実家である京の九条家であると考え、九条道家の孫の忠家を右大臣から引き摺り下ろし、関東申次役に西園寺実氏を据えて鎌倉との連絡役を九条家から西園寺家に代えた。これによって、やがて、九条家出身の第五代将軍頼嗣も鎌倉に留まることは出来ず1252(建長4)年に鎌倉を後にする。


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