山名氏

清和源氏義家流新田氏

新田義重の子の義範が現在の群馬県に当たる上野国多野郡山名に住んだことから山名を称したのが始まり。当初、南朝方として戦ったが正平18(1368)年に室町幕府の軍門に下る。しかし、丹波、丹後、因幡、伯耆、美作の五ヵ国は足利義詮によってそのまま安堵されるという破格の扱いを受けた。更に、室町幕府内でも領国を増やし、全国の1/6に相当する11ヵ国を領有するに至り六分の一衆と呼ばれるほどの権勢を誇った。

時氏の子の氏清の時代に足利義満は、氏清に氏清の甥の時熙討伐を命じ一族の勢力の二分化を画策。氏清はこうした幕府の動きを察知し、氏清と満幸が謀反。当初は討伐されるはずだった時熙が宗家を討った(「明徳の乱」)。時熙は武功によって山名宗家を承継、山名家は四職の家柄ともなる。しかし、丹波は細川氏へ和泉は大内氏へと所領の多くは失う。

時熙の子の持豊(宗全)は、足利義教を謀殺した赤松満祐、満政を討ってかつての山名家の復興を成し遂げた。ここに山名家所領は8ヵ国となったのである。

しかし、応仁の乱で細川勝元と対立し、乱後にかつての勢いを保つことはなく、豊国の時代に徳川家康に仕官し但馬国七味で6,700石を伝えた。


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