足利高氏、鎌倉に居座る

「御上洛然るべからず。頻年京都に御座有し時、公家並びに(新田)義貞陰謀度々に及ぶといえども御運によって今に安全なり。たまたま大敵の中をのがれて関東に御座、然るべき旨を以って堅くいさめ御申し上げる」

『梅松論』

鎌倉を逃れた足利直義は三河国矢作宿で京都を経った足利高氏と合流し再び武家の都である鎌倉奪還を目指す。

遠江国橋本で北條軍を戦火を交え、続いて佐夜中山、高橋、箱根、相模川、片瀬川で勝利を収め鎌倉を再び手中にする。ここに、北條時行は落ち延び、時行を奉じた諏訪頼重は自刃。中先代の乱は終焉する。

京都で内心、対立していた後醍醐天皇は足利高氏の勢いに驚き従二位という官位を与えて鎌倉を去って京都に戻るように催促。しかし、これには弟の直義が猛反対。もともと直義は武家の都である鎌倉と関東をこよなく愛していた。京都の公家衆には飽き飽きしていたのである。

弟の諫言を聞き入れて高氏は大蔵にあったかつての鎌倉将軍邸に館を新造。

新田義貞の上野守護職を上杉憲房に与え、上杉重能を伊豆守と高氏領目代に、吉川経頼を白井保、三浦高継に新田荘を与えるとともに、征夷大将軍を自称した。


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