足利高氏謀反す

「(足利)家時、(足利)貞氏この御両所の御造意を大方殿(足利高氏の母、清子。上杉兵庫入道憲房の妹)の上杉計(ばかり)に仰せ聞かせられるとかや」

『難太平記』

「高時は北條四郎時政が末孫なり。人臣に下って年久し。我は源家累葉の族(やから)なり。王氏を出でて遠からず。此理を知るならば、一度は君臣の儀も存ずべきに、是までの沙汰に及ぶ事偏(ひとへ)に身の不肖によるなり。

(中略)

一家を尽くして先帝の味方に参って六波羅を責落して、家の安否を定むべき者を」

『太平記』

足利高氏は鎌倉幕府に叛旗を翻し京都の六波羅を攻める。この時、鎌倉では高氏の嫡男の千寿丸が大蔵谷の足利邸を抜け出し下野国へと落ち延びた。そして、上野国生品明神で挙兵した新田義貞と岩松経家が鎌倉街道を南下。

この軍勢に武蔵国で千寿丸を奉じた紀ノ五左衛門の軍勢が合流。関東の雄足利氏の嫡男という旗頭を得たことで関東の武家は倒幕の旗色を明確にする。

「又上野国に高氏の一族新田義貞、はや鎌倉を攻めんとて打ち立て給ふ。高氏の息男(千寿丸)ともに合戦をいたすべき由、高氏催促す。すなはち義貞、かの議を受けて武蔵、上野、相模の勢を催しつつ、鎌倉へはせつき、高氏の息男と相図を定め、合戦いどまんとす」

『保暦間記』

入間川、久米川、分倍河原で鎌倉幕府軍を打ち破った足利・新田両軍は5月18日には鎌倉に攻め寄せる。鎌倉を守る最後の防衛線である切り通しでの激烈を極める。しかし、21日には新田軍が稲村ガ崎と霊山寺から鎌倉に侵攻。翌日、得宗北條高時以下一族一門が東勝寺で揃って自刃。ここに鎌倉幕府は幕を降ろした。

しかし、ここで問題が発生する()。


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